[Top]

西院河原地蔵和讃について

「西院河原地蔵和讃」 [URL]
(賽河原、賽の河原、佐比の河原‥とも)
に関するメモ。まだ整理できてないですが‥


[前] お地蔵さま (ナデナデ)

みどり子たち

[Table of Contents]

主役は「2歳から10歳以下の幼児たち」

 「みどり子」。今だと「水子」「嬰児」になるでしょうし、もともとは3歳以下を指していた言葉の ようです[URL]が、 この和讃だと、範囲はかなり広くなってますよね。つまり、 どうやら昔(江戸期?)は現代よりも 範囲が広いみたいで、「2歳から10歳以下の幼児たち」も該当するようです。

 実際、和讃に出てくる子どもたちの描写を見ても「河原の石を取り集め、それで回向の塔を積む。 これは父のため、これは母のため、これは兄弟、そして自分のため‥」なんて感じですから、 少なくとも歩いたり、石を集めたり、積んだり‥というのが自分一人の力でできる程度の子どもたちが 「みどり子」に含まれてることがわかると思います。 「一人前」になる前に亡くなってしまった子供、というイメージでしょうか。

[Table of Contents]

でも今だとフツー、生まれる前だよね

 現代的な意味での「水子」さんは、どうなんですかね。いま「水子供養」というと、 どうしても生まれる前の赤子さんの供養が主流で、その関係で お地蔵様、賽の河原和讃‥というパターンになってる気がするんですけど。 でも、この和讃を見ると、子どもの主役はあくまで「2歳から10歳以下の幼児たち」なので、 現代的な意味での「水子」さんは厳密にはここに入らないような気がします。

 さらに、そもそも なんで赤子たちが河原で苦しんでいるかといえば。 これはすでに他のページで紹介しましたが、 室町時代の「富士の人穴草紙」に以下のようにあるのが元々と思われます:

(大雑把訳) 新田は尋ねる「どういう罪であのように?」。大菩薩がお答え。 「娑婆において、親の胎内にて9月も母親を苦しめたのに、親孝行せず恩返しせず 亡くなった者どもが。その罪を9000年受ける(?)。母の流す涙たまりて血の池となるなり」
本当はちゃんと成人して 親を助けることが求められてるのにその義務を果たさず死ぬとはなんと親不孝‥という 悲しい事情ゆえのことのようなんですけど、 堕胎の場合は 子どもに親不孝の罪を着せるのはかなり無理がありますし‥。

[Table of Contents]

「生まれる前の子ども」は江戸時代後期頃から?

 ただ江戸時代後期(18〜19世紀)の 山東京伝『本朝酔菩提』の「佐比の河原の説経節」という作品に 「水子等は、胞衣を頭に被りつつ」とあり、 歌川豊国画「賽之河原図」には蓮の葉をかぶった水子が描かれ‥など、 江戸時代後期には 水子と胞衣(蓮の葉)を結びつける記述や表現がいくつか見られることは確かなようです。

 つまり、江戸時代までは「賽の河原」にいる「みどり子」といえば、 「2歳から10歳以下の幼児たち」が主流であったのに、江戸時代後期頃には もっと年齢が落ちてきて 今みたいな「水子」たち、つまり 生まれる前に 生命を落としてしまった子供たちが、賽の河原に集まるようになってきた 可能性があるということですけど。

 これについて、川村2000は以下のように 述べます:

蓮の葉をかぶった子供はたんに赤子や早世した子供ではなく、胞衣をつけたまま、 堕胎された水子を表象しているとも考えることができる。蓮の葉笠をかぶった子供=水子は供養を 受けて、成仏することになろう (川村邦光(2000)『地獄めぐり』筑摩書房(ちくま新書246). p.134.)
‥‥「考えることができる」‥ちょっと微妙な言い回し‥

[Table of Contents]

現在の「水子供養」

割と知られた話であるとは思いますけど。

 現代的な「水子供養」の歴史というのは実はそんなに古いものではなく、 1970年代、昭和50年頃に成立し、そこから広がった風習と言われています。

 「水子霊のたたり」も墓相ブームと前後して大流行しました。今も、水子供養で売る宗教や水子地蔵を販売する石材業者は少なくありません。 ‥(略)‥  本覚寺(明覚寺)はこうでした。「(水子をつくれば)家系の未来を自分自身の手でふさいでしまうのであるから…家族や子孫が幸せになることはとうてい望めない」「いつまでも何らかの不幸をもたらす恐しい霊障であり、父母、兄弟姉妹、孫、ひ孫まで引き継がれていく」(『霊視入門』)。 (「現代こころ模様・葬儀考」 第4部「『墓』と人生」 /しんぶん赤旗)
「水子は、たたる」といって人々の不安をあおり、それで一儲けしようとした人たちがいて、 実際に大ヒットした。 その結果、多くの人たちが「水子供養」に関心を持ち、なんか定着してしまって現在に至っている。 ‥そんな感じなんでしょうか。

[Table of Contents]

水子供養と罪障感

 ただ、このように「水子供養ブームは、人の弱みにつけこむ坊主どもの金儲けによるもの」と いう分析では十分ではないかもしれません。なぜなら、彼らの商売が成り立つには 水子を「弱み」と感じる人たちの存在が不可欠だからです。日本では、古来、 「水子」に対してそこまで格別の罪障感・自責の念を感じるようなことは なかったはずですから‥。

 では、いつ、どのように「水子」が格別の罪障感のタネとなるようになったのでしょうか。 以下、山折哲雄(1996)『近代日本人の宗教意識』岩波書店. の一部(pp.80--88; ハードカバー版)をまとめてみたんですけど‥

 「生まれ変り」の信仰が強かった近代以前では、中絶はそれほど大きな 精神的負担でなかった。「間引き」は子どもの霊魂を一時「オカエシ」すること、 という解釈。

 日本では1940年に「国民優生法」が制定されたが、 これは母体の健康や経済的困難を理由にした人工妊娠中絶を認める、 その後の流れに繋がったらしい。この段階ではまだ罪障感はそんなに高いわけではない、はず。

 この流れが変わってきたのが1960年代後半。医療技術の発達により 「胎児は六ヶ月になると『心』を持っている」ことが明らかになってくる。 これにより「胎児はすでに一個の独立した生命である」という考えが強まり、 人工妊娠中絶への規制を強めるべきでは? との世論が世界的に高まってくる。

 たぶん、この世論が影響したのか(このへん、詳しいことはわかりません)。 水子供養経験者へのアンケート(1989)によると‥

回答 者の多くが、中絶をしたことで罪障感をもつようになったことを告白している。なかには中絶当時に は無自覚であっても、あとから他人に教えられ諭されて罪障感をもつようになっている。 ‥(略)‥ 私が面白いと思ったのは、わずか二例であるけれども中絶をして水子供養をするにいたるなかで、新 しく授かった子どもを、中絶した子どもの「生まれ変り」と考えている水子供養者がいたということ である」(山折1996, p.84)
‥と、このように、水子=罪障感=供養、という構図が ほぼ できあがっている感じ。(山折1996まとめ、ここまで)

 近代化の前は「子どもの霊魂を一時『オカエシ』する」という、生まれ変わりの思想 (これを「輪廻思想」と呼んでいいのか、私にはよくわかりません)によって 「水子」の母親たちは罪障感を軽減できていた。しかし現代においては、 「生まれ変わり」とか「霊魂を一時『オカエシ』する」というのでは 納得できなくなってきた。それは、今は昔ほど「信仰の力」がなくなっているため、 そういう話では納得できにくくなっていることがあるし(中には「生まれ変わり」という 昔ながらの解釈をしようとする人もいるが、それはほんの一部)、そして何よりも、 昔とはちがって「胎児は すでに独立した、一つの生命である」という新たな概念が、 「生まれるまでは、生まれてない」という昔の考え方よりも 母親たちを強烈に罪障感に縛り付けているから。‥こんな感じなんでしょうか。

[次] 子ども と葬儀