[前] 賽の河原は「さい」の「ごうら」か? |
現存する資料で「賽の河原」が最初に出現するのは室町時代の御伽草子らしいです。 御伽草子の「富士の人穴草子」(J-TEXTS; [URL]のページで「賽の磧」で検索)(「人穴」については[Wikipedia])には、賽の河原に関する以下の記述があります:
‥地蔵様の役割が、和讃とは違ってますね。子どもを守ってくれる訳じゃないんですね。 地蔵様はただ呪文を唱える。すると子どもは元通り。‥これって 「地獄?」[URL]の註[*2]で紹介している 往生要集の「等活地獄」の場面にある以下:「獄卒が鉄叉で地面を打ち「活々」と唱えたとき。 それで復活して元に戻る」の部分と比較してみると、おや? という気になりますよね。
地獄の場合、獄卒が鉄叉で地面を打ち「活々」と唱えたときなど、人々は元に戻るわけですが。 これはつまり、地獄の責苦の結果、身体が粉々になってしまったらもう痛めつけられることはなくなる‥ なんてことはない、地獄に落ちた者は その罪が尽きるまでひたすら責苦を受け続けるのだ、 そのため、身体が粉々になってしまっても、身体はすぐ元通りになる、そしてまた 身体を砕かれて痛めつけられのだ。ほら、苦しめ 苦しめ!!‥‥ということなんですけど。 それと同じ図式が、賽の河原でも行われてるということですよね。
[Table of Contents]そして、その「身体を元どおり」にする役目、 地獄では獄卒たちが行っていた役目を、ここで担っているのはなんとお地蔵様。つまり、 お地蔵様が 子どもを元どおりにするのは、子どもを救うためではなく、 子どもがまた苦しみを受けるように ということになりそうですよね。 それを獄率じゃなくて、地蔵様がやるんだ‥。 (なお、この「子どもの身体が元通り」という情景は、のちの和讃群ではほとんど 見かけないですね。やっぱ不評だったんでしょうか。)
なお。現存する作品のうち、「賽の河原」がはじめて登場してくるのが室町期ということから、 「賽の河原」の思想が出てきたのも平安期ではなく、室町期と考えられているようです (真鍋1969,p.61.など)。 つまり『西院河原地蔵和讃』は「空也上人(10c)作」であるとの伝説ですけど、 空也上人の時代、平安時代にはまだ「賽の河原」という発想はなかったので、 その伝説は事実でない可能性がかなり高そうですね。
[Table of Contents]上で紹介したシーンの後の展開を見て、さらに気になるところがあります。 上のシーンのあとさらにストーリーは進んで、 主人公の新田は 三途の川を渡り、地獄に入っていくわけですけど。 そこで新田は一人の法師様を見かけます。
新田が「あれは如何なる法師にて候。」と聞くと、このような返事が:
てことはつまり。本作で出てくる、 (賽)河原の(子供を元どおりにする)地蔵様の描写というのは、ひょっとして後から 追加された感じなんでしょうかね。つまり、最初は名もない極卒がやるものになっていたものを、 「子どもを元どおりにする役で、きっと子どもを助けてくれるはずの役目だから、 お地蔵様に違いない」と勘違いして、それをお地蔵様に変えてしまった、と。その結果、 お地蔵様が 結果として 子どもを永遠に苦しめ続ける役割を担わされるような伝承になってしまった、と。 そんな感じだったりするんでしょうか。 よくわからないですけど。
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