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詳しい年代などはよくわかりませんが、「富士の人穴草子」と同じく『御伽草子』に含まれる 「天狗の内裏」、この中にも「賽の河原」が出てくる箇所があります。
ただ、ここで紹介する「天狗の内裏(十一段写本)」は、いろいろある写本の中で最も冗長というか
多弁というか、かなり書き足しが多い、かなり特殊な版本のようです。どれくらい特殊か?
どれくらい書き足しが多いのか? ‥実は、ここで紹介する「賽の河原」のエピソード
そのものがこの「十一段写本」にしか書かれてないほど特殊です^^;
なのでここで紹介する「賽の河原」の話は、「天狗の内裏」そのものも成立年代よりさらに 後の時代の書き足しだろうなー、と。そういう推定ができてしまいます。 現存の写本は江戸時代中期頃の写しのようですから、 書き足されたのは室町時代から江戸時代初期まで、と年代にかなりの幅がありますね。
ここで私が興味深く感じるのは、ここです:
子どもたちは幼いから。それゆえ、善業を積むなんてことは知らない。逆に、 悪業を積むことも知らない。それゆえ善業も悪業も不十分すぎて、 浄土往生もかなわず、かといって地獄に堕ちることもない。行き先が決まらない。 それゆえ「この世」と「あの世」の境目である「賽の河原」にしか居るところがなくて、 そこで「あの世」側からやってくる鬼神どもに攻撃されるのだ。 そこで子どもらを守ってくださるのが地蔵菩薩であられる。‥‥んー。 子どもたちは何でそこにいるのか? 「地獄」というにはヌルすぎないか? という、(後述する)私の疑問に対して、それなりにちゃんとした答が出てますね。すごいですね! なんか「賽の河原」なるものの設定が進んでる気がしますね。 (ただ、地獄に堕ちるまでいかない子どもたちが行き着く「地獄でない地獄」というのは、 どう理解したらいいんでしょうね。地獄なんだか、地獄じゃないのか‥)
この十一段写本については「本文の表記に訛りが見られる。おそらく、地方で語り物として 行われていたものなのであろう」(p.599)と書かれてますから、やはり、 語ってる最中に、語ってる人たち、そして話を聞いてる人たち、その人たちのモヤッとした 疑念を埋める方向に進化した、ってことでしょうか。
ただこの理由は「後代の書き足し」、進化した「後付け」で間違いないと思いますから、 「賽の河原とは何なのか」の根本的な答にはならないですよね‥。 この考え方がその後広く浸透した訳でもないですし。
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