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「賽の河原」のネタ元は『妙法蓮華経』ではないか? という声も根強いようです。
ある本によると、こんな感じに書いてあります:
法華経(上)改版 [ 坂本幸男 ] |
ところで前者の「石積みの元ネタは法華経」について。 『妙法蓮華経』の該当箇所はこれですね:
対応するサンスクリット文の和訳(岩本訳): 「子どもたちが遊戯の際に、そこここに、小石づくりの塚を作り、仏たちのために 供養塔とするとき、これらの人々は、すべて「さとり」に到達するであろう。(82)」(岩波文庫版p.1:115)。
‥典拠とされる『妙法蓮華経』では「砂(沙)を集めて仏塔をつくる」となっている点が、 ちょっと気になります。法華経でいう「砂を集めて」と、 『賽の河原和讃』でいう「河原の石をとり集め」では イメージする情景が かなり違ってきますからね。でもまあ、これはどうでもいい話ですね。 (サンスクリット文のほう、岩本訳では「小石づくりの塚」と書いてありますけど、原文だと "sikatāmayān-vā puna kūṭa"(KN p.50)の "sikatā" ですよね。辞書だと "sand" とありますし、 松波訳には「砂の山」(p.1:67)ですので、こちらも「小石」より「砂」のほうが近いのかな‥。 つまり「法華経」は「砂」、「賽の河原和讃」は「河原の石」という違いがあるのは確かみたいです)
[Table of Contents]さて。「法華経」を見ると、ポイントは「子どもの戯れであったとしても、 仏塔を作れば功徳がある」というところですよね。言い換えれば「理由は何でもいい、 とにかく仏塔を作るのが大事」と。ここでは「理由は何でもいい」を強調するための 極端な例として「子どもの戯れ」という比喩を出してきてるんだよなー、という感じです。 その文脈を、こういう形で取り上げて 物語を作り上げてしまったのか。 正直、やりすぎじゃないかという気がしてきますけど‥
「子どもが戯れに供養」については、私もあまり知識がないのでよくわからないんですけど。 でも、仏教では「ものすごく些細なことであっても、果報は甚大である」という比喩として、 それなりに良く使われるネタなのかもしれません。
まあ、仏さまへの供養を行うことができない人たち、その人は救済されないのか? という 問題があって、それでたぶん日本では「称名念仏」、つまり「なむあむだぶつ」と唱えさえすれば 救済され得る、なんて話も出てくると思うんですけど。それと同じようなものなんですかね。 「お供えする気持ちこそが重要。気持ちさえあれば、お供え物が土であったとしても、 救済され得る」という感じの。 (‥私はこのへんの話については まったく詳しくないですので、外してるかもしれません)
[Table of Contents]日本において「仏像・仏塔をつくる行為こそに意味ありそう」という考えが、 いつ頃から出てきたのかはわかりませんけど、さすがに法華経に書かれてあることですから、 かなり早い時期からそういう考え方は日本にもあったんだろうと思います。 これと関連する記述をたまたま見つけましたので、 ここでちょっとメモしておきます。日本の平安時代、 9世紀前半頃の『霊異記』です。用例は以下:
‥イメージとしては人形をつかった「おままごとあそび」な感じなんでしょうか。 戯れで作った仏像らしきものを、戯れで作った仏塔・寺院らしきものに 安置して遊んでいた子どもがいて、それをみたバカが その戯れに作った仏像らしきものを 壊した途端、バチが当たって死んでしまった、という話です。
ここでは、子供たちが仏像を戯れに作ったこと、そのこと自体について 良いとも悪いとも書かれていませんけど。でもその戯れに作成した仏像らしきもの、 それを笑って壊して捨てたバカ者が仏罰を受けて即死してしまうあたりからすると 「戯れに作った仏像らしきもの」に相当な重みが置かれている‥‥かというと、 ちょっと微妙かもしれませんね。
なぜならその後、文脈はこう続くからです: 「諒知。護法非無。」 (大雑把訳: 護法神がいない訳ないと判明した。) ‥んー。「仏を敬わないと、 護法神に制裁されるからな! 気ぃ付けて行動しろよ!!」という教訓話なんですかね。 つまり「悪いことすると、お仕置きされる」ということだけ述べられてて、 その逆、戯れに仏像を作ることが功徳になるかどうかはハッキリしてないように 見えるのが ちょっと気になります。というかこの時期の功徳とか業報とかって、 「仏様による ごほうび」とか「護法神による制裁」とかいう感じ、 親や先生に ほめられる/しかられる、のに似た感じのものとして イメージされてたってことなんでしょうかね。
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