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「賽の河原」は「三途川」とともに「冥途」の一部と位置づけられていますが、 三途川は基本 渡るものとして位置づけられていますが、賽の河原には 子どもたちは留まり続けるんですよね。そのへんの細かな設定(?)はどうなっているのかと いうのは不明です。大人は皆強制的に渡らされるけど子どもは永遠に渡れない‥てか、 向こうに渡ってしまうとそこは めくるめく地獄の世界につながっているわけなので、 逆に河原に留まっていた方が地獄には行かなくて済むから安心安全という感じ?
[Table of Contents](書きかけ。とりあえず岩本1979から「おお」と思ったところを抜き書きしておく)
三途川、三つ瀬川とも。これは三塗とは異なる。 平家物語に「ふたたび三途の火坑に帰って」とあったりするが、この三途は、 地獄餓鬼畜生の3つの道、すなわち三途ということで、 漢訳仏典における「三塗」と同じ意味だと。 「三塗もわが国ではサンズと読まれ、両者は混用されるのが普通である」(岩本1979, p.315) しかし三途川とは別もの。 三途川が文献にあらわれ出すのが10世紀。『蜻蛉日記』など(岩本1979, p.314)。 しかし同時代の『往生要集』には「三塗」はあっても「三途」はない。 つまり「三途」の出所は仏典ではない。また三途川が、三塗(地獄餓鬼畜生)へ向かう川である、 という解釈も無理。ちょっと時代は下がるが、日蓮(1254)『十王讃嘆鈔』の三途川の説明の ところで、この川の渡りの中に「金銀七宝の橋也。善人のみ此[れ]を渡る也」というのがある。 地獄餓鬼畜生道は 善人が行くところではないから、つまり三途川は「三塗へ至る川」という 意味でないのは明白。 『霊異記』の冥界潭に、よく「道を進むと、3つの道があった」というのが出てくるが、 たぶんそれが「三途」の原形だろう、と。(岩本1979, pp.315--317) まとめると「「三途の川」の所伝は前に述べたように『蜻蛉日記』に見られる「みつせ川」が 最初であるとすれば、「三途の川」とは『霊異記』に見られる「三つの道」の伝承とこの 奈河の伝承とが十世紀にわが国で合成された生じたものであろうか」、 ただ中国古典にこれと関係しそうな表現があるかないか わからないのでそのへんは微妙、と (岩本1979, p.319)。
三途の川は [ 十王讚歎鈔(鎌倉時代?)の 2:初江王 ] など に出てきます。それより前の時代の [ 地蔵十王経(平安時代末期?)の 2:初江王 ] では、 三つの渡り場がある川は出てきてるんですけど「三途の川」という名称はまだなく (葬頭、奈河津と呼ばれてます)、 その名前は定着してなかったみたいです。
[Table of Contents]「三途の川」という設定ができあがってから、さらに後代になってから 「賽の河原」が想像されるようになったと考えられています。前のページでも書きましたが、 「賽の河原」がはじめて登場してくる現存の作品が室町期ということで、 「賽の河原」の思想が出てきたのも平安期ではなく室町期と考えられているようです。 (真鍋1969,p.61.など) それを裏付けるように、 地蔵十王経 [URL]では、 川とか渡しとか婆の話は出てくるのに、 河原についての言及は何もありません。
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