伝 日蓮上人 撰(伝 1254(建長6)年)『十王讃歎鈔』の大雑把訳です。
[前] 1:秦廣王/不動明王 |
二七日は初江王、本地は釋迦如來。
[Table of Contents]この王へ詣る道に一本の大河あり、三途河である。 川幅は40由旬。本当は奈河という。 この河には3つの渡りがあるため、三途河と呼ぶのである。
上にある渡りは浅く、水瀬と呼ぶ。ここは浅くて膝下しか水がなく、 罪の浅い者がここを渡る。 中にあるのを橋渡と呼ぶ。金銀七宝でできていて、善人のみここを渡る。 下にある渡を強深瀬と呼び、悪人だけがここを渡る。 この渡は矢のように流れが早く、浪の高さは大山の [p.1971] 如くなり。 水中には毒ヘビどもがいて、罪人を責め喰らう。 また上流から大磐石が流れてきて、罪人の全身を打ち砕き、粉々にする。 それで死んでもまた生き返り、生き返ればまた打ち砕かれる。 水の底に沈むと、大蛇が口を開けて待っている。 浮かぶと、鬼王・夜叉が弓を射かける。
こんな苦しみの末、七日七夜たって向う岸にたどり着く。 だから十王経に「二七日は亡人奈河を渡る」とあるのだ。 引路牛頭は肩に棒をかつぎ、催行鬼は手に刀を持つ。 引路牛頭は後ろから追い立てて棒で叩き、 催行鬼は岸の上にて待ち受ける。絵にも描けぬとの言葉もあるが、 いま前後にいる鬼どもの恐ろしさは、見るに耐えない。
[Table of Contents]岸の上に衣領樹という大木あり。この上に懸衣翁という鬼あり。 樹下にも懸衣嫗という鬼がいて、 罪人の衣服を剥ぎ取って樹上の鬼に渡すと、その衣服を木の枝に懸ける。 罪人どもは皆、この鬼に睨まれ「衣服をぬげ」と責められる。 罪人の着衣は一枚だけなので「十王の御前に詣るとき、裸で恥をかく訳にはいきませぬ。 どうかご勘弁ください」と手を合わす。すると鬼が怒って「バカめ。 ここで惜しんでもどうせすぐ猛火で焼かれるのだ。はやく脱げ」と責めるので 脱がされ、泣く泣く三途河の嫗に渡すのだ。
哀しいことに、生前は七珍万宝を積み上げ、色とりどりの衣服を着替え、重ね着て、 人々に世話されて [p.1972] 暮らしていたものが、冥途中有の旅にでて苦しみを送る身となれば、 一衣さえも着ることはできず、従者一人もつかずに迷い行くのだ。 後一條院が崩御された後、或人の夢で
「故郷に ゆく人あれば 伝えてよ 知らぬ山路で ひとり迷うと」と詠っておられた。 皇極天皇は冥途で信州の善佐にお会いしたとき
「たまたまに 問う人あれば 闇の道 泣く泣く一人 行くと答えよ」とお告げになった。 この方がたは一天の君、万乗の主であられるので、ちょっとの外出でも百官が随行し、 雑色が前払いをしていたのに。黄泉の旅ではお供一人もいないのは悲しいことよ。 じつにはかない約束かな。天にあれば比翼の鳥、地上なら連理の枝、 火にも水にも一緒にと浅からぬ誓いをしても、生命は別であるから、 かような重苦に沈むとは夢にも思わない。 鴛鴦の衾を重ねるとか、龜鶴の契りを結ぶとか、露ほどの生命のある間のことだけ。 [Table of Contents]
さて初江王庁の庭で膝をつく。 そのとき大王は罪人に仰せ。「汝は生前、どんな善根をなし、 どんな功徳をなしたか申せ」と。
しかし罪人は生前ろくに善根なすこともないため、ただ口を閉じて黙りこむ。 その悲しさは限りなし。 責められるうち、ひょっとして何かあるかとも思って 「忘れてしまいました」と申し上げる。
[p.1973] すると大王は「それなら雙幢の卷物を」と仰せ。 この巻物について。この大王の左右に壇荼幢という幢があるが、 その上に人頭あり、左が大山府君幢、右が黒闇天女幢である。 この左の人頭がすべての罪をもらさず記し、 右の人頭が善をすべて残さず記す。これを合わせて雙幢と呼ぶ。 この人頭が人間を見ること、自分の手の中を見るが如し。 亡人の一生すべての善悪をあまねく記し、その巻物を奉納するのだ。 大王がそれをお読みになると、それを耳にする罪人ども、自分の振舞への恨めしさに、 身を切り裂くようである。
そして大王は獄卒を呼び「この罪人はすぐ地獄へ送るべし」と宣えば、 罪人は悲しみのあまり泣く泣く「御定めのとおり、私には助かるような功徳はありませぬが、 娑婆にいる妻子親戚どもが、私のため追善をしてくれるはずです。 その善根を待ちたいので、大王の御前に止めおきくだされ」と申し上げると、 大王は「汝がそう思うなら、しばらく待とう。慈悲ゆえに」と。
この王は慈悲深い方である。 なぜなら本地は釈迦如来であられ、一子平等のご慈悲ゆえにお助けくださるのだ。 父母が病気の子を思うように。 衆生の業の力が、仏のパワーよりも強力なのは業因感果の道理からも必然であり、 仏のご慈悲があっても如何ともならぬゆえ、ご慈悲かなわず仏さまを心苦しくさせる。 不信無志の不孝の我が身は、悲しんでもキリがない。 それゆえ種々法門により皆に機会を与え、最終的に出世間の [p.1974] 本懐たる法華経を説かれ、 仏は一切衆生が皆仏道に入れるようにされたのだ。 これを知り、成仏得道したいと思うなら、自分にふさわしき妙法を唱え、信仰を持つべし。 信心を持たず、三途に堕ちて重苦を受けてから後悔しても意味がない。 網にかかった鳥が高く飛ばなかったのを後悔するようなものだ。
[Table of Contents]さて罪人は、妻子の追善を今か今かと待っていたが、追善はないようだ。 子らが逆に、遺産争いゆえ種々の罪業をなすのなら、罪人の苦さらに重くなる。 生前は妻子のためと罪業を造ってきた者どもが、 苦を少しでも軽くする程度の善根さえ送ってもらえないことが恨めしそうだ。 築いた財宝は今ここでは何の役にも立たぬと、悲泣するのは哀れなり。
大王これをご覧になり「汝の子らは不孝なり。今は我が力及ばぬ」と地獄に堕とされる。 ここで追善があり、逆謗さえ救助できる妙法蓮華経さえ唱えれば成仏できるのだ。 さすれば大王も歓喜され、罪人も喜んだであろう。
それ以外、追善もなく、かといって妻子が罪業もなさぬ場合、 判決が決まらないため次王へ送られる。
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