伝 日蓮上人 撰(伝 1254(建長6)年)『十王讃歎鈔』の大雑把訳です。
[前] 十王讚歎鈔 |
初七日は秦廣王、本地は不動明王である。
[Table of Contents]この王に詣る途中、さまざまな苦患あり。 命尽きるとき、断末魔の苦がある。さまざまな病によって 全身を百千の鉾剣で切り裂くようなものである。 眼が闇くなり、何も見えない。 舌も動かず、何も言えない。 莊嚴論に「命尽きるときは黒闇の中、深岸に堕ちたようで、ただ一人荒野を逝く」とあるが、 まさに魂去る時は暗闇の中、奥底に堕ちるように終わり、 一人ぼっちで荒野を彷徨うのだ。これが中有の旅である。
[Table of Contents]進もうにも持ち物とて何もなく、休もうにも休憩できる場所もない。 そこは星の光だけがある闇夜の如し、と聞く。 星の光ほどの明るさだから、前後左右も何も見えない。 一人ぼっち、何かを聞く相手もない。考えただけで [p.1968] 心細く、悲しくなってくる。 娑婆が恋しく妻子にも会いたいが、引き返すことはできない。道はどんどん遠くなる。 どこに向かっているのか、どの道を進んでるのかもわからない。あるのはただ悲しみの泪のみ。
こうして向かう道の途中、迎えにきた獄卒に会うものもあれば、 初七日の王の前ではじめて獄卒を見るものもいる。 罪業の浅深によるのだろう。
極悪・極善の者らにも中有なし。極善の者らはすぐ成仏す。 極悪の者らはすぐに悪趣(地獄・餓鬼・畜生)行きだ。 それ以外の一般人、また仏門に入っても成仏するほどの行業なき者らに中有あり。 ここで語るはそれらの人の話なり。
[Table of Contents]こうして真暗な中、罪人どもは足にまかせて進むのだが、自分ひとりがこの道を進むのかと 思っていると、見ることはできぬのに、罪人どもが痛みに叫ぶ声が聞こえてくる。 胸騒ぎがして恐れていると、獄卒の声らしきものも聞こえる。 動揺していると、羅刹が姿を現す。それまでは僅かにその名を聞く程度だったものを、 目の当たりにする恐怖はどれほどか。その後は前後に連れ添い、息つく間もなく責めたてられ、 いつのまにか死出の山にいたる。
この山は高くて嶮しい。どうやって越えるのか? とも思うが、 獄卒どもに責められて、泣く泣く山路に入る。 巌は剣のように尖り、歩くにも歩けない。 すると獄卒の鉄棒の一撃。息が耐えても其ままで、 [p.1969] しばらくたつと生き返る。 それゆえここを死出の山と呼ぶ。 足の踏みどころもなく、急坂に杖をくれる人もなく、 履物を履かせてくれる人もなし。 この山の遠さは、八百里。嶮しさは、壁に向かうようなもの。 嶺から吹き降りる嵐はげしく膚にしみ、剣のように骨髄に刺さる。 このような種々の苦しみを受けつつ、泣く泣く死出の山路を越えて、 ようやく秦廣王の御前に參る。
[Table of Contents]見れば無数の罪人ども、捕らえられて御前に居たり。 そのとき大王は罪人どもをご覧になって 「汝ら、ここに来るのは何度目か。ガンガーの砂粒の数と同じくらい、といっても 過言にあらず。覚えてないだろうが、地獄の業尽きて娑婆に帰るとき、 獄卒が鉄の棒で三回たたき『人間に戻ったらすぐ仏道修行して成仏せよ、 もうこの悪趣に来てはならぬ』と言い聞かせたのに。 また罪業をつくって、すぐ戻ってくるとは情けない。 娑婆世界には仏法が流布しているというに、仏道修行せずムダに過ごして、 またここに来るとは」と仰せ。
罪人は「仰せ御尤もですが。そもそも私は果報拙く、一文不通でありますし、 一般家庭に生まれれば、左様な修行覚道は思いもよらぬこと。 私の過ちではなく、ただ拙い果報がうらめしいです」と答え。
すると大王は激怒して「鳴呼、言ってることがおかしい。 一般家庭に生まれたとしても、仏道を願うのは [p.1970] 同じ。成仏するのに特別な才覚は不要。 汝は後世があるのを忘れて、不当不善の心のみで過ごしたから、またこんな場所に来たのだ。 ほかに言いたいことがあれば申せ」と睨まれると、罪人ぐうの音も出ず。
大王さらに「汝、ここまで理屈こねていたのに、なぜ急に黙るのか」と呵責されるが、 お言葉が身にしみてただ泣くだけである。自分の心がけを恨み、千度百度も後悔すれども、 後悔先にたたず。それゆえ後世を忘れぬことは肝要なり。 ムダに時間を過ごし剰な罪業を犯して三途の故郷に戻ってから、また苦しむことになっても 誰を恨むことができようか。強い信仰心をもって、成仏開悟をめざしてくだされ。
さて、この王の御前にて善悪の軽重が決定できなかったときは、 二七日の王のところへ送られる。
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