賽の河原は「さい」の「ごうら」か?
[Table of Contents]賽/西院/狭井/佐韋/佐比
「賽」については
近畿地方にある川の名前「狭井」「佐韋」「佐比」などが起源だとか、いやいや
道祖神は「賽の神」というけどその「賽」だとか、諸説あるようです。
いずれにせよ、起源についてははっきりしないものの、とにかく「さい」という読みが
広がって、それに人ごとに「賽」とか「西院」とかの漢字が当てられた、と。
そんな感じみたいですね。
このことについては、柳田1946も以下のように仰せです:
最初に言うべきことはこの地名には漢
字がない。すなわち生まれからの日本思想で、仏法はただこれを地獄の説明に、借用したに
過ぎぬということである。従って何が原因でこんな名ができたかは、尋ねてみる価値がある
のである。
(柳田國男(1946;repr 1990)「先祖の話」『柳田國男全集13(文庫)』ちくま文庫, p.174)
「この地名には漢字がない」と指摘しています。
[Table of Contents]河原
一方の「河原」についてですけど。
この起源については
「ごうら」「こうら」、つまり石のゴロゴロした石原じゃね? と柳田も仰せらしいです
(五来重(2007)『石の宗教』(オリジナルは1988年),p.81.)。
つまり、最初から「川のほとりで」というイメージがあった訳ではなくて、
石がゴロゴロしている石原がイメージされていたものの、こっちもやっぱり「ごうら」という
読みが広がった後で「それって河原のことか?」となって「河原」という漢字が当てられた
可能性がある、と。
石のゴロゴロした石原だから「ごうら」、と柳田が指摘した箇所がどこかというのは
わからないんですけど。柳田1946によると:
私は多くの山中にこ
の地名があり、そこには大小の石のたたずまいが、よほど尋常と異なっているのは、古い世
の信仰の痕跡であって、決して巷間の地獄物語の、ただかりそめの適用ではないと思ってい
るのである。 (柳田1946; p.182)
サエはすなわちその関の戸の標示であって、そこに何者のしわざとも
知れぬ不思議の石積みが必ずあるというのも、我々の側から言えば喪の穢れの終止点、他の
一方から見れば神々の清浄地へ登り近づいて行く第一歩というものが、どこかこのあたりに
なくてはならぬということを、感ずる者が多かった結果と思われる。 (柳田1946; pp.182--183)
やはり順礼の寂しい旅をする者が、死を考えま
たは死者を憶い起さずには、通り過ぎることのできない関門のようなものであったゆえに、
自然にこういう小石の塔が、くり返し積まれて行くのだろうと私は思った。 (柳田1946; p.176)
なぜか山中によくある「賽河原」。大抵の場合、そこには 誰が積んだのかわからない石積みが
散見されるパターンが多くて、それが いかにもな賽河原ぽいムードを演出している訳なんですけど。
この石積みは誰がどういう気持ちで積んだのか? という話になると。和讃の歌詞で有名な
「一重積んでは父のため、二重積んでは母のため、三重積んでは故郷の兄弟我身と廻向して‥」
この歌詞に影響されて人々が石を積んだと考えるよりも、もともと山中の、神々の清浄地の入口、
死者が「あの世」へ向かう途中の通り道、
つまり「この世」と「あの世」の境界地で何かしないと気が済まなかった人たちが
石積みをしていたのではないか。そしてそんな石積みの光景を見た人たちが、逆に
そこから和讃の「一重積んでは父のため‥」の歌詞を作ったのではないか。‥といった感じでしょうか。
(関連:
祖先の「みたま」は案外我らの近くに )
なるほど‥。とは思いますけど、この説の妥当性については正直よくわからないので、
これ以上何も言うことがないです。
[Table of Contents]望月仏教大辞典の起源考
賽河原の起源について、望月仏教大辞典を見てみたところ。「今按ずるに」との
前置きをつけて以下のように述べていましたので、紹介させていただきます。
今按ずるに、山城国紀伊郡吉祥院村石
原村の辺に佐比の里あり、‥(略)‥
佐比の里は、貞
観の頃既に百姓葬送の地たりしことを知るべく、其の
屍骸を河原に埋葬し、石を積みて塔婆に擬したるより、
遂に佐比の河原の信仰を胚胎するに至りしものなるべ
し (望仏, p.1423)
「山城国紀伊郡吉祥院村石原村」というのは、
現在の京都市南区吉祥院石原町に当たる場所のはずです。
その近辺にあった桂川と鴨川の合流地点周辺の河原が
「佐比の河原」で、そこでの葬送の風景が「賽河原信仰」の
源流になっている、と。現在の地図を見ると、吉祥院石原町そのものは
桂川鴨川合流地点よりずっと桂川上流地点に位置しているのが
気になるんですけど、でも「石原村の辺に」ですから、
問題ないですね。
‥んー、どうですかね。平安時代すでに「屍骸を河原に埋葬し、
石を積みて塔婆に擬したる」習慣があったかどうかが
争点になりそうですけど。そういう話って、あまり聞いたことが
ないような‥