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よく知られていることだと思いますが。望月仏教大辞典には「按ずるに賽の河原の ことは経典に典拠なく、我が邦中世以後、俗間に於て起りし一種の迷信なるが如し」とあります。 「賽の河原」はほぼ完全にMade in Japanであり、仏教というよりは 仏教に仮託された日本の民俗宗教的色彩が かなり強いということですね。
つまり、庶民の中にあった「死後の世界」についての漠然としたイメージが 日本の仏教信仰にじわじわと侵食してきて、 イメージが徐々に言語化・明確化されてきて、その結果「さいの河原」が いつのまにか日本の仏教信仰の一部となってしまっていた、と。そういう感じだと思います。
でも、じゃあ、その「仏教に仮託された日本の民俗宗教」とやらが削ぎ落とされた 仏教本来の死後世界、つまり仏教の開祖である「おしゃかさま」が 考えておられた死後世界は どんな感じだったか‥というのが、なんか 気になったりしませんか?
どうやらこれについては「無記」というのが本来的みたいです。無記って何?? という話になると:
死後の世界のことは、どうでもいいから無視されていた‥。
だから逆に言えば、初期の仏教経典では「死後の世界」について何も書いてなかったから、 だから仏教が伝わったそれぞれの地域時代の人たちが、 それぞれ自分たちの死後世界観を 外来の仏教と 割と簡単に共存させることができた、と。 そして日本の場合、日本の昔からの死後世界観を 仏教と共存させ 仏教の一部のように伝えることができたからこそ、今もなお人々の中に 「賽の河原」がひそかに浸透して伝承されてきている、と。 そんな感じには言えそうですよね。
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