ご先祖は山に?
[Table of Contents]祖先の「みたま」は案外我らの近くに
では日本では もともとはどんな感じで考えていたか?
昔の人々が なんとなく感じていた他界観。「なんとなく感じていた」ことというのは、
文献に直接に明記されることがないため、判断は非常に難しいものがあります。
ここではあの柳田國男師の説を紹介させていただきます。
私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち
霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそ
らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているというこ
とである。
(柳田國男(1946;repr 1990)「先祖の話」『柳田國男全集13(文庫)』ちくま文庫, p.61)
無難に一生を経過した人々の行き処は、これよりももっと静かで清らかで、この世の常の
ざわめきから遠ざかり、かつ具体的にあのあたりと、おおよそ望み見られるような場所でな
ければならぬ。少なくともかつてはそのように期待せられていた形跡はなお存する。村の周
囲のある秀でた峰の頂から、盆には盆路を苅り払い、または山川の流れの岸に魂を迎え、ま
たは川上の山から盆花を採ってくるなどの風習が、弘く各地の山村に今も行われているなど
もその一つである。霊山の崇拝は、日本では仏教の渡来よりも古い。仏教はむしろこの固有
の信仰を、宣伝の上に利用したかと思われる。
(柳田1946, p.170)
卯月八日の山登りという風習が、これと関係をもつことはほぼ疑いがなく、一方には釈尊
の誕生会から、導かれて来たかと思われる手掛りはいっこうにない。‥(略)‥
一方御霊の山にあるという信仰とも縁がなさそうに見えるが、
これは高山の上に登るにつれて、だんだんと穢れや悲しみから超越して、清い和やかな神に
なって行かれるという思想からも説明し得られる。十分に適切な証拠とも言われまいが、富
士や御岳の行者などにも、死後の年数と供養とによって、だんだんと順を追うて麓から頂上
に登って行き、しまいには神になるという信仰が今も行われている。それが普通の人にも想
像せられていた時代があったことは、以前の葬法が主として山の中に向って、亡骸を送って
行こうとしたことと思い合せると、簡単に否定し去ることはできない。 (柳田1946, p.171)
ご先祖は山の中に。しかも遠くの山ではなく、村の人たちが仰ぎ見ることのできる程度しか
離れていない、そんな山の中におられる。‥それが柳田1946 の主張です。
4月8日は現在では「花まつり」、
お釈迦さまの、たんじょうび、とされていますが、
元々はそれとは別だったのでは? との主張です。
たしかに日本の所々に残っている(?)「卯月八日の山登り」の風習と「釈迦仏の生誕日」とは
結びつかないのは確かですし、だったら何? という話になると、たしかに柳田説のとおりかな?
とは思わないこともありませんよね。
[Table of Contents][余談] 4月8日はやはり仏教由来?
ただし「4月8日に仏教系の祭」というものの起源を辿ってみると、
古代インドにも それっぽいのがあったようです。
Wikipedia でも
紹介されていますが、『法顕伝』は5世紀初頭の
マガダ国パータリプトラの風習として以下を伝えています:
年年常以建卯月八日行像。作四輪車縛竹
作五層。有承攎椻戟高二丈許。其状如塔。
以白〓纒上。然後彩畫作諸天形像。以金
銀琉璃莊挍其上。懸繒幡蓋四邊作龕。皆有
坐佛菩薩立侍。可有二十車。車車莊嚴各異。
當此日境内道俗皆集作倡伎樂。華香供養。
[ 高僧法顯傳;大正2085; p.51:862b14 ]
[大雑把訳]
毎年いつも建卯月8日に「行像」を行う。四輪車を、竹により五層にして高さ二丈の塔のようにする。
これに白布をかぶせ、諸天形像を描く。金銀ルリ幡蓋などで飾った龕をつくり、仏菩薩を安置する。
装飾が異なる、こうした車が20台ほど。この日は道俗みな集まり、舞踊華香などで供養する。
(参考: 長沢訳注(1971), p.98)
果たしてこれが「花まつり」の最初なのか? ‥ただ「建卯月」というのが4月ではなく、
2月のことらしいですから、そのへんはちょっと微妙ということと、あと
パータリプトラでは特にその日が「ブッダのお誕生日」だった訳ではないこと。
そのへんが引っかかるところではありますね。
(Wikipediaには
インド暦の2月が中国暦の4月で云々‥という説明が書かれてますが、よくわからないのでそこはパスです。)
[Table of Contents]なぜ近くの山なのか
先祖の「みたま」は近くの山にあり、との柳田説を上で紹介しました。「近くの」については、
すでに紹介した箇所にもハッキリと書かれています:
具体的にあのあたりと、おおよそ望み見られるような場所でな
ければならぬ。 (柳田1946; p.170)
この点について、さらに柳田説を紹介しておきます。
柳田1946では、先祖の「みたま」と我々の関係を考慮すると、あまり遠くにある場所では
具合が悪いはず、と考えたようです。どういうことかといえば。
つまりはそのようにしてまでも、なお生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊
だという日本人の考え方を、容認せずにはいられなかったのである。(柳田1946; p.163)
日本人は「死んだら終わり」ではない、日本人はそういう考え方をしてこなかった。‥という
ことですね。
我々の精霊さまは、毎年たしかな約束があって来られ、また決してよそ
の家には行かれない。行くところがきまらぬのでうろつきまごつき、はからず立ち寄られるのだ
と思った者などは一人もいなかった。(柳田1946; p.161)
とにかく毎年少なくとも一回、戻って来て子孫末裔の誰彼と、共に暮し得られるのが御先
祖であった。‥(略)‥
我々の同胞国民は、いつの世からともなくこれを信じ、また今でもそう思っている人々が相
当の数なのである。この信仰の一つの強味は、新たに誰からも説かれ教えられたのでなく、
小さい頃からの自然の体験として、父母や祖父母とともにそれを感じて来た点で、‥(略)‥
すなわちこの信仰は人の生涯を通じて、家の中において養われて来たので
ある。 (柳田1946; pp.158--159)
人は死んでも「先祖」「祖霊」となって、
年に何回も我々のところに
かならず、迷うことなく
帰ってくる。単身赴任中の お父さんのように(?)。
そんな感じで。死んだ人たちが毎年かならず、足しげく子孫たちのところに帰ってくる、
そんな密な交際を続けるためにはやはり、先祖たちがおられるのは それほど遠くないところで
あるべきだろう、と。そういう感じですかね。んでこの柳田説というのは、
文献的裏付けがほとんどなく、あくまで民俗的資料からの推論から成り立つものですから、
どれほど正鵠を得たものか? は なかなか判断できないものではあるのですが。しかし
この推論は、私が何となく感じている『お盆』に関する人々のイメージと かなり近いものを
感じてますので、なるほどなー、という感じです。ただ私事になるのですが、ウチは
父方も母方も先祖代々、近くに山らしい山のない かなり平らな平地で暮らしてましたから、
「近くの山中」って、一体どこよ?! という点でちょっと途方に暮れますけど(^_^;