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ちょっと気が向きましたので、所謂「臨死体験(near-death experience)」との 関係についても、ちょっとメモしておきたいと思います。
[Table of Contents]「臨死体験」とは、心臓停止などの臨死状態になった人(で、さらにその後病状が回復した人。 亡くなってしまった人の体験を聞くことは基本、無理ですから‥)の 一部が臨死中に体験したと語る、特殊な体験のことです。セイボム(Sabom)1982の調査では、 調査対象とした臨死者78人中33人(42%)が臨死体験を語ったとのことです。
「あの世」からの帰還新版 [ マイケル・B.セイボム ] |
セイボム1982によれば、その「特殊な体験」、臨死体験の中身は大きく分けて 2つのパターンがあるようで、以下:
そしてこの経験は、普通に見る夢とは違って かなりリアルなものらしく、 それゆえ「あれは単なる夢なんてもんじゃない。リアルな経験である」と 訴える人が多いのも事実のようです。実際、セイボム1982が紹介する事例のうち、 たとえばI-19番の人(pp.40--41)、I-32番の人(pp.44--46)、I-45-2番の人(pp.47--48)‥と、 それぞれ臨死体験後4年、5年、15年後のインタビューなのに かなりハッキリと臨死体験、つまり臨死のときに体験したこと(見たこと)を語っていて、私なんか逆に 何でそんなにハッキリ記憶してるのか、そんな何年も前のこと、そんなに ハッキリ記憶するのは俺にはムリだ! すげえ!! ‥と逆に 感心してしまうほどです。 (この彼らの経験が 実のところ何なのか、 私はそれを判断できる材料は何も持っていませんので「何だかよくわからないけど、 とりあえず彼らは極限状況でしか見れない 『何か』を見た(感じた)のだろう」という感じの立場を ここでは取っています [*註1]。 「せん妄」? [*註2]。)
この「臨死体験」を経験した人のうちには、それによって その後の人生観などが 大きく変化する人がいるみたいです。これについてはセイボムも以下:
本人からすると、自分が意識を 失い臨死状態に陥っていた時体験した事柄の方が、死の淵から蘇ったことよりも重いのである。 (セイボム1982, p.7)このように印象を述べています。
とくに「超俗型」の体験をすると その傾向が大きいんでしょうか。 「光」「光の存在」を見たとする人の中には その「光の存在」に「神」を感じたと 言う人もいるみたいです。 また別世界らしきものを見た人の中には、それなりの割合で 「人は死後、別の世界に行く」ことに確信を持ってしまう人もいるみたいです。 ブリンクリー氏(ブリンクリー、ペリー(大野訳)(1994)『未来からの生還』同朋舎出版)は その典型例のように見えます。「光の存在」からメッセージを受け取ったりとか、 超能力的なものを持っちゃったりしたみたいですから‥。
[Table of Contents]ここでは2種類の類型のうち「超俗型」の体験に注目します。これは‥
この患者は、自分の肉体が置かれている「この世的」な場面とは全く異質な見慣れない世界ないし次 元に自分の「意識」が入って行くのをはっきり感じたという。私はこうした体験を超俗型臨死体験と呼 んでいる。この世的な限界を「超越」する物事や出来事が体験されるからである。 (セイボム1982, p.65)こんな感じのもの、つまり「どこか別世界に行く感じの体験」であって、 セイボム1982が示すその内訳は以下:
このうち、日本における「冥途」のイメージと、いちばん共通していそうなのが 最初の「暗い世界ないし空間に入る感じがした」だと思います。上に列挙した、 延べ89名のうち14名(16%)しかいないの? とは思いますけど、ちょっとその 具体的内容を見てみましょう。
私のまわりは完全に真暗でした。‥(略)‥ トンネルの中をどんどん進んで行ったんです。トンネルみたいには見えませんでしたけど。 ‥(略)‥ すごく速く動くと、その真暗闇の壁が自分に迫ってくるような感じになりますでしょう。 (I-29; 1年後; セイボム1982, p.66)
何もかも真暗でした。その時、宙に浮いている感じがありました。宇宙飛行の時み たいに、空間が果てしなく広がっている感じですね。 (I-56; 2月後; セイボム1982, p.66)
そこは本当に真 暗でしたが、先生方がなさっていることが見えたんです。‥(略)‥ でも、私の体のまわりは明かるくて、まるで 部屋の中にいるみたいでした。私のいたのがどこかはわかりませんけど、とにかく真暗でした。で も外は見えましたし何でも見えました。(I-45-2; 15年後; セイボム1982, p.67)
暗かったり薄暗かったりの廊下みたいなところに浮かんでいるような感じで、ゆっくり上 にあがってきましたね。 (I-57; 1年後; セイボム1982, p.68)
それから完全に真暗闇な中に入ったんです。……すると、こういう光が見えました。誰かが懐中 電灯でも持ってるみたいな感じの光がですね。それでそっちに近づいて行ったんです。 (I-8; 7年後; セイボム1982, pp.68--69)
このトンネルの向こうに、明かるい光が見えたんです。ミカンみたいだったなあ。‥(略)‥ トンネルの端がちょうどそんなふうに見えたわけですよ。結局はその端まで行けま せんでしたがね (I-15; 1年後; セイボム1982, p.69)ここで紹介した6例のうち「真暗」という単語が出てくるのが4例。 この「真暗」のところだけ見ると日本の室町期あたりの冥途との共通点を感じますけど、 「歩いて前進する」という日本的冥途的状況はないですね。
それと真暗であったにもかかわらず、なぜか周囲が見えている人もいるみたいですね。 そこはちょっと不思議な感じではあるんですけど。しかし臨死体験というのは普通、 突然やってくる、しかも人生で一度(人によっては数度ある人もいるみたいですけど) しかない経験を、後になってから思い出して語ったものしかデータになりませんから。 なので多少の矛盾があっても、そこは目をつぶるしかないですからね‥。
[Table of Contents]証言・臨死体験 [ 立花隆 ] |
たまたま図書館で 立花隆(1996)『証言・臨死体験』文藝春秋. なる本を見つけたので、 パラパラとめくってみました。セイボム1982 と比較して気になったのが、なんか 川とか池とか海とか、水辺の光景が出てくるパターンが多いことです。 というか セイボム1982 で水辺が出てくる話はほとんど見た記憶がない‥。
これはどう考えるとよいのかな? たぶん、彼らが実際に何を見た(感じた)かは さておき、その見た(感じた)ものを後になって自身の脳内で回想というか再現 というか解釈しようとすると、そこで どうしてもいろいろなものを追加してしまう、 そういう、言ってしまえば(故意ではない)捏造というやつ。 それがどうしても起きてしまってるんだろうなと妄想してしまいます。
[Table of Contents]またセイボム1982の「日本版序文」にあるベッカー氏の文章。ここに 個人的に非常に印象的な記述がありましたので、それを紹介させていただきます:
教会の立場からしますと、信者でなけ れば天国に行けるはずがないという教義があるのに、教会に通っていない者までが臨死体 験の中で天国に行ったと言い、逆に熱心な信者でもそういう体験をしない者があるのは不 都合だというわけです。モーリス・ローリングスという医師は、そのような立場から、逆 に地獄の体験の例を集めようとしたのですが、これが予想に反してかなり少なかったので す(『死の扉の彼方』、第三文明社刊)。 (別華薫(Carl B. Becker)(1986)「日本版序文」, セイボム(笠原訳)(1986;原文は1982) 『「あの世」からの帰還 臨死体験の医学的研究』日本教文社, pp.i--ii.)「臨死体験」において、「光の存在」を感じる人も それなりにいるのは確かです。 そしてその「光の存在」に神を感じる人もいたりするんですけど。その逆、 (キリスト教の)地獄のような、ネガティブな状況を体験した人の数がかなり少ないらしい、 というのはちょっと面白いですね。立花1996 における日本の事例でも そういったネガティブな光景はまったく見かけません。 「よみがえりの物語」などでは地獄語りが多そうな印象が強いんですけど‥。
といいつつ、臨死体験を語る人たちの中で明示的に地獄に関する言及をしている人が ほとんどいないため、 「地獄的なものについて何も言わないってことはきっと、地獄的な光景は見てないんだろうな」 と憶測するしかなくて、それゆえ何かちょっと はがゆい思いをしてしまうんですけど。 そんな中、立花1996 に唯一こんな証言があるのを見つけました:
地獄絵というのがありますね。鬼がい たり、血の池があったり、ああいうものはないわ けですよ。花畑しか見えない。向こうに待ってる のは、地獄のようなところじゃないわけです (立花1996, p.198b;佐藤国男氏の場合)おお、「地獄的なものはない、花畑しか見えない」という証言があるじゃないですか! 臨死体験においては、やっぱり、地獄的なものは ほとんど見られないというのは 確かなようですね。
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