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図説地獄絵をよむ (ふくろうの本) [ 澁澤龍彦 ] |
なお、どうでもいいことなんですけど。人の死後が「極楽往生、あるいは地獄」という
二者択一だった場合。極楽往生は基本的に阿弥陀如来ご一行が来迎されて、それで
そのご一行と一緒に空を飛んで極楽に行くはずですので、つまり、死後、この山路を
テクテクと歩く状況になってしまった人は、その道行きの先には、もう地獄[*註1]。
しか待ってない
ということですよね。‥歩きたくねえ(^_^;
実際、極楽浄土に向かう人については‥
この閻魔王界へ赴く者は、大悪人から少しの善をおさめた者までで、息切れて 四十九日の中有の世界を通って初めて大王の前に出るのである。大善人は死するや直ちに 阿弥陀仏の極楽に生れるので此処へは行かない」(澁澤龍彦・宮次男(1999)『図説・地獄絵をよむ』河出書房新社(ふくろうの本)., p.24;[*註2])このように、極楽浄土に生まれる人は冥途には行かない、 とする設定はあるようです。
ちなみに、また川村2000によれば、人が死後往生できたかを判断する一つの基準として、 平安時代の‥
往生伝では、死後、「容色常の如し」とか「その身体、平生の如し」と された、「爛壊」(腐乱)のなかった死者が「往生の瑞相」をもつ往生人とされたように、 死臭を発散させない遺体は、往生の相とみなされていた」(川村2000,p.128) (元ネタは千々和到(1987)「仕草と作法--死と往生をめぐって」『日本社会史8』とのこと)このような「人に不快感を感じさせない遺体であれば、極楽往生」という 基準はあったそうです。本当にご来迎・極楽浄土往生するかというのはさて置き、 やはり 穏やかに、というのが理想的なのは確かですよね。
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