その他・未整理
- 鹿角三十三観音
- 能代 福田三十三観音 ‥‥1861(文久元)年建立とのこと。当地の肝煎家の供養塚らしいです。[*1]
- 男鹿霊場三十三所[1][2]
‥‥由来等は不明です。そういえば確かに龍門寺入口に「男鹿西国」って書いてあった‥
- 西来院三十三観音 (秋田市寺内)[1] [2] ‥‥久保田スタイルのお札が貼られてるみたいです。やっぱ秋田ですね
(^_^)
[*2]
- 筑紫森(河辺町)に点在する三十三観音[1]‥‥これって秋田六郡19で言及されてる「ツクシ森」[URL]じゃね?? ‥ん? 「通行止め」の看板の奥に「三十三観音」があるってことは?!
- 亀田領三十三番観音霊場 [1]
[2]
‥‥ [2]によれば1780年代創設? で「亀田藩三十三札所は、現在では消滅している場所もありますが、そのほとんどに代理の史跡があります」だそうです。「ほとんど」というのがちょっと気になりますね。
- 亀田・松ヶ崎札所 [1] ‥‥
「亀田・松ヶ崎札所は数カ所が確認出来るだけで、現在では大半の所在が不明」とあります。んー。
- 赤田三十三札所
[1]
[2]
[3]
[4]
[マップ]
‥‥ 伝・1787(天明7)年創設。なんか実質の創始者は遠藤治平さんじゃないかと
いう気はするんですけど、その年代は不明です。今も残っています。9/1,2 と二日かけて札打ち巡礼するようです。能代[URL]と似てる! 長谷寺向かいの東光館前の掲示板に「屋敷内にある赤田観音霊場(札所)については、普段は見学は難しいです。9月1日と2日は巡礼の日なので自由の参拝できます」と書いてるのを目撃しました。つまり「赤田三十三」が一斉にご開帳するのはその日だけ、他の日は参拝できない札所多数、ということですね。んー。その看板を見たのが9月8日‥。ちなみに最大のポイントは東光山五合目近辺にあるとされる 2:是山山籠跡、3:毘沙門堂 ですかね。[*3]
- 出羽国由利郡(本荘領)三十三番観音霊場[1] ‥‥ 「この中には、現在では廃寺となり、所在不明な寺もあり、また寺は存在していても観音像が不明であったりと、かつての信仰は明らかに衰退してきている。そうした中で、十八番の正乗寺では当時の巡礼札が残っていて、かつての観音信仰の隆盛の一端を伝えている。」(『本荘市史 文化・民俗編』(2000), p.690) ‥‥この文にある「かつて」がいつ頃なのかは不明ですが、本荘市史文化民俗編p.689に「出羽国」とあるので江戸時代なんだろうなと思います。
- 矢島領内 三十三番観音[1] ‥‥江戸時代からあるみたいです。[1]には「今後この巡礼の旅が復活する時が来るかもしれません」と書いてありますので、伝統は途絶えたのでしょうか‥
(-_-)
- 勢至公園 三十三観音(金浦)[1] ‥‥幕末・安政年間の1857年に設定されたようです。竹生島もちゃんと再現してるみたいです
(^o^)
// これ、たぶん「金浦三十三観音」[2][3]と同じものですよね‥たぶん(徒歩で約2時間と書いてある。けっこう規模が大きいのか)
- 鳥海山 霊峰神社跡 三十三観音(象潟)[1][2]
- 秋田六郷三十三観音[1] ‥‥詳しいことは不明です。[1] のサイトによれば、一番札所が「白滝観音」であることがわかります。これって、秋田六郡[URL]の一番? にしては観音像が異様に新しくないですか?? 戦後? ‥‥ちなみに。「秋田六郷 三十三観音」で検索をかけると、「あきた県都交通」の観光タクシーのページ[URL]がヒットします。この「秋田六郷」、どう見ても「秋田六郡」の誤字だよなー、というのはよいのですが。ひょっとして [1] のサイトも‥
- 雄勝山三十三ヵ所 (横手・雄物川町)‥‥秋田33-05蔵光院の境内にあるらしいです。石像。1843(天保14)年スタートらしいです。1830年代の天保の大飢饉が契機だったりするんでしょうか。
- 滝の沢三十三観音 (横手)[1]
- 松原三十三観音 (美郷町六郷)[1]‥‥「地蔵群の中にはキリシタンのシンボルとも思わせるものもあ」るそうです。ほー
- 房住山の三十三観音[1][2]
- *註1
-
『能代市史 特別編 民俗』に、以下のような説明があります:
「福田には三十三観音がある。福田と石丁の境に位置するが、十五平方メートルくらいの広さのとこ
ろを平地にして、その周囲に三十三の観音石像を配置している。三十三体とも墓石風の作りで、
花燈彫りに彫り込んで、観音像を浮彫にしている。一番は他の観音様より基壇が一段多く、信
仰者の中心的存在であることがわかる。塔身の左に「文久元辛酉八月七日‥(中略)‥
福田の肝煎家である野呂田氏の供養塚であることがわかる。観音の刻像は
如意輪観音や千手観音、聖観音などであるが、三十三体をはっきりとは区別できない。この三
十三観音域の入口には寄進者の名を刻んだ石塔が立っており、‥(中略)‥
広い信仰圏があった
と思われる。彼岸や盆の時には草を刈り払い、花やローソクを手向けて供養する。(pp.651-652)」
実は私、能代は通過したことしかないので土地勘とか全くないんですけど。地図で見ると、
たぶん、能代市のかなり南側、浅内沼の東側の熊野神社のあたりですかね?
- *註2
-
『秋田名蹟考』(1903(明治36)〜1910(明治43))には以下のようにあります:
「○三十三観音 西来院の裏いろは山ニあり。文化年間土崎の人岩船五左エ門西国を巡拝し、
霊地の浄土を携へ帰り、この地に石標を建立し、土を埋めて勧請せり。後、荒廃となるを、
現住職高橋観堂再建せるに至れり。(p.20)」‥
「現住職高橋観堂再建」と書いてるわけですから、観音様の建立は
明治に入ってからということでしょうかね。
まだ実際に参詣してないので何ともいえないところです。
- *註3
-
本荘市教育委員会編(1996)『赤田大仏祭り』,p.62 を見ると、
「九月一・二日
八朔の札打ち、俗に三十三番観音参りと言い、西国三十三番観音にならって行なわ
れたものであり、一日の熊野神社から始まり、二日の長谷寺を打ち止めとして三十三
番観音を参拝して札を打ってくるものである。」という説明文とともに、
どこかの札所に
掲げられた巡礼歌の看板の写真が掲載されています。見ると、ここで用いられている
巡礼歌は久保田三十三と同じく、西国三十三の巡礼歌の流用であることがわかります。
それとあと気になったのは「八朔の札打ち」という名称で、つまり赤田の札打ちは
9月(「八朔」(八回目の新月の日)なのでおそらく江戸時代は8月1日にやってい
たのを、新暦では
それに近い月初めで、ということで月遅れにしたとかかな?)にやっていたということですよね。
能代だと5月と9月の年二回札打ちを行うわけですが[URL]、
赤田は9月(昔の8月)だけ。
三浦敏男,『秋田県 矢島の神明社八朔祭[URL]』の「2-1-3 秋田県内の八朔祭・県外の八朔祭との比較[URL]」によれば、南内越(本荘市)では
「奉公人の休みの日として、作祝いに長谷寺の祭舞台をそのままにしておいたのを利用し、
唄と踊りで二日まで賑わったという。二日は幕納めといって若い連中が、上がったハナ(祝儀)で
慰労会を行った。また一日、二日は赤田(本荘市)の三十三番札所を回り、大仏殿に御詠歌を
納めた。このような行事が八朔に行われるのは、この日が休みとすることもあろうが、
何らかの祭日が休みとされたのであり、八朔日は初穂を献じたように、
もともと作祭りであったから、それにさまざまな行事がつけられていったことが考えられる。」
とのことです。たしかに八朔の作祭り行事の一環として赤田では札打ち行事が行われるように
なった可能性は高そうですね。朔日、つまり新月の日にやるということは
夜の祭り・先祖祭とは全然関係ない文脈から出てきてそうな感じがしてしまいますし。
そうすると作祭りかな、と。
ただちょっと気になるのは同じページにあった以下の記述:
「本荘市埋田、葛法では、この日の朝に蓮の実が飛び、もしこれにあたると骨膜炎を
病んで不具になるといわれ、外出を忌み、止むを得ず外出する時は、
生米か餅を食べてから外出するように言われていた。」‥‥巡礼の最中に
蓮の実に当たる可能性は考えてなかったんでしょうか(^_^;