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能代三十三 (札打ち) -- 久保田三十三との比較

The 33 Kannons of Noshiro, as a resemblance of the 33 Kannons of Kubota (Akita City).

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History // 起源 (由緒)

In about 1800, a samurai killed dolphins sailing in Yoneshiro River. He regretted killing and then he became a monk named "Kanko". He established "the 33 Kannons of Noshiro" with an aim to pray over the dead dolphins.

 「北羽新報」[URL]の2009.05.02付の記事によれば、 能代における札打の起源は以下だそうです:

約200年前の享和年間に同市御指南町の足軽、三浦七五郎が米代川を上がってきたイルカを仕留めたところ、 凶事が相次いだ。このため、怒りを鎮めようと、西国の札所巡りをまねたのが、札打ちの始まりとされている。
享和年間‥調べてみると、象潟地震が1804(文化元)年6月に起こっていますが、その1804年は2月途中まで 享和4年だったようですので、時期的にはほぼ重なりますね。イルカが米代川を上がってくるというのも 大地震の直前とかいう状況なら、まあ、あるかなとも思いますし。地震と札打、関係あってもおかしくないとは 思うのですが。どうなんでしょうね。

 しかし‥殺されたイルカの怒りを鎮めるために始まった巡礼が、いつのまにか追善の巡礼に 変わってた、というのはどうでしょうかね[*1]。 私としてはちょっと納得しにくいんですけど。

*註1
『能代市史 特別編 民俗』に、起源についてもっと詳しく書いてあります。 北羽新報には「イルカを仕留めたところ、凶事が相次いだ。」とありましたが、 「凶事が相次ぐぞと夢の中でイルカに脅迫され、驚いて和尚さんに相談した。 修行せいと言われて結局出家して観光と名乗った。 西国三十三の尊像を刻し、それを能代各地に配置した。 やがて信者が増えたので札打ちと称して巡礼し、先祖の供養を することになった(p.648より概要)」というようなことが、16,33:富町観音堂に 残されている1932(昭和7)年書かれた縁起にあるようです。‥んー。なんか、 あちこち唐突な感は否めませんね。尊像を刻する契機は何なのかとか、 そして本ページ的に最も関心があるところの、何故、いつ頃から 先祖供養の札打ちをするようになったのかという点もわからず‥ つまり「観光という人が始めた」という伝説的起源以外はよくわからない、 ということなんでしょうね。
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