The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".
[前] 巡礼札の歴史 |
能代にも「戒名を書いた札」を、三十三観音札所に納めて回る、札打の風習があるようです。 日取り・札の書式など 細かい点にいくつか違いは見られますが、大まかな点では かなり似てると思います。 [もっと詳しく]
[Table of Contents]観音様ではないんですけど、「お地蔵様札所巡礼」で戒名を書いた紙を貼付けていく、 という風習が鳥取・島根県県境海沿いの米子市・安来市周辺にあるみたいですね。 「地蔵 札打ち」で検索をかけると、それを伝えるページがあちこち見つかります。 ただ、能代と同じように、札の正面にはデカデカと「南無地蔵大菩薩」と書いてあって、 戒名はその脇にすこし小さく書く感じのようですが‥。 また、七七日を迎えるまでは毎週巡ると書いてあり、そのへん結構大変そうです。 ‥‥ただ、こちらもかなり狭いエリアのみで行われている行事のようで、 久保田との共通点とか‥どうなんでしょう? 日本海ルートを考えるにしても、 もうちょっと類似の事例がないことには
[Table of Contents]「壱岐國33ヶ所札所順拝」 [URL]というページに 以下のような記述があるのを見かけました:
私は戦前の子供の頃、親の代理で彼岸の中日に、壱岐国33ヶ所を巡拝した経験がある。当時は全て歩き巡拝で、しかも1日で巡拝を終えなければ成らなかった。ある特定の日に、しかも一日で回りきらないといけない ‥という部分を見ると、久保田三十三の札打と似た感じがしますよね。 無論、久保田は盆正月こちらは彼岸という違いはありますし(ただ、久保田も江戸時代はお盆期間の7月9日に回っていたらしいことは確認済 [URL])、 また時間帯も久保田は 夜通し(夜通しというのは、いわゆる「先祖の祭り」にありがちな時間帯設定)、 一方のこちらはたぶん日中に回ったんじゃないかと思われますので、 そのへんにも違いはありますが。でも お彼岸だからなー。わざわざ「親の代理」を立ててまで、 だからなー。供養の可能性、あるよなー。(詳細は不明です。) ただ札のフォーマットは全然違いますね。右から順に 奉納日、「奉納 当国三十三ケ所巡礼」、 住所氏名、の三行のようですから。(故人の戒名を書いてはいない。) [Table of Contents]
最上三十三観音札所の中には、死者供養の一環として いわゆる「ムカサリ絵馬」なるものが大量に奉納されている お堂が存在していることが知られています(右図。ちょっと細工して 個人名を消してあります。関連URL: [1] )。このムカサリ絵馬が 持つ暗さというのは、どこか久保田三十三番札所巡礼と繋がるものがあるかなあ、と いう気がしていますが、そのへんのことは今後、考えます。ただムカサリ絵馬などの 冥婚関連の風俗って、そんな昔まで遡れないことが多いんですよね。 一部の例外を除いて、太平洋戦争より後に奉納されたものがほとんどのはずですから‥ [*註]
‥ということで、久保田三十三番札所巡礼が今のスタイルになったのは いつか、というのも 興味あるところですけど、どうやって探ればよいのか
[次] 註 |