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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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巡礼の目的

本家(?)西国三十三の例によれば、 民衆が巡礼をおこなう もともとの目的としてはやはり「滅罪」「極楽往生」があるらしいとの ことです。これに関しては善光寺との絡みがカギになってるのかもしれません。曰

東国からの巡礼者の多くは、そのまま郷里に帰らず善光寺参詣に向ったようである。 田中智彦氏は、極楽往生を主眼とする善光寺への信仰が、西国巡礼の滅罪信仰と結びつきを 持つようになったのだろうと考えている。二十四番札所中山寺の室町中期の縁起をみると、 三十三所の霊場に一度でも参詣すれば、十悪五逆の人も悪道に墜ちず、まして三十三所を巡礼すれば 極楽に生まれると説いている。江戸初期の西国巡礼札を整理してみても、父母の菩提やみずからの 二世安楽を願うのがほとんどだから、増大する民衆の西国巡礼を支えたものは、現当二世安楽の願い、 ことに極楽往生の信仰であったと思われる。 (速水侑(1996)『観音・地蔵・不動』講談社現代新書.pp.195--196.)
‥‥ただ「現当二世安楽」というのは、絵馬に「諸願成就」と書くようなものではないか、 格別にお願いしたいことがないから とりあえずそう書いてるんじゃないか、という疑念を 私が持っていることは確かです。

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巡礼の十徳

一般的な「かんのんさま巡礼」によって得られる「十徳」について、何種類かあるみたいですが、 清水谷1983は3種類紹介してますので、それを紹介させていただきます (清水谷孝尚(1983)『観音巡礼のすすめ』朱鷺書房. pp.244-245.)。

  • 『西国三十三霊場記』では 1:火難、水難、横死の難、盗賊の難をのがる。2:悪畜、どく虫、すべて獣ものにあひ死することなし。 3:毒薬、無実の難をまぬがる。4:雷電、落馬の死をせず。5:厄難、ねつ病、すべて流行病をうけず。 6:海川、船に乗って風波の難をまぬがる。7:寿命長久、子孫はんじゃうを守り玉ふ。 8:諸神、諸仏応護し玉ふ。9:諸願成就せずといふことなし。10:もろもろの罪障めっして、 極楽浄土へむかふべしとのお誓ひなり。
  • 『西国順礼細見記』では 1:三悪道に迷はず。 2:臨終正念なるべし。3:順礼する人の家には諸仏影向あるべし。4:六観音の梵字ひたいにすはるべし。 5:福智円満なるべし。6:子孫はんじょうすべし。7:一生のあいだ僧供養にあたるなり。 8:補陀落世界に生ず。9:必ず浄土に往生す。10:諸願成就するなり。
  • 『秩父円通伝』だと 1:福寿増長。2:子孫繁昌。3:衆人愛敬。4:所求必得。5:衆病悉除。 6:身体堅固。7:家宅永安。8:出入神護。9:先亡得脱。10:即身成仏。
最初の『西国三十三霊場記』と最後の『秩父円通伝』は現世利益メイン、 二つ目の『西国順礼細見記』は(自分の)来世メイン、といった感じでしょうか。 それにしても『西国三十三霊場記』の4番目「雷電と落馬で死なず」となってますけど、 この二つが同一カテゴリとされているのは不思議といえば不思議な感じですね。 いずれにせよ、追善はアウトオブ眼中な印象は受けます。巡礼に追善的要素があったとしても、 あくまで「ついでに」的な?

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札に戒名

[20 坂東三十三観音札所と石造物(その1)] (Blog[石仏散歩]の2011/11/24)という ページの10〜11番あたりを見ると、観音様に、ほぼ戒名しか書かれてない札が貼られてるのが 確認できます。でもこのブログでも書いてますが、「奉納 百地蔵尊‥‥(戒名)‥」という札が すぐ横に貼られてあって、おいおいそれ間違い‥というのがちょっと。 観音様と地蔵様、どっちも同じだよ、という感じなんでしょうね。

(ちなみに「地蔵様」については[こちら]も どうぞ。) ‥でも、三回忌までの盆に地蔵札を100枚貼る風習って、関東のほうにはあるんですね。 ここで紹介したページにも 「ここいら武蔵野の一部と房総の一部で今でも行われている、と何かで読んだ記憶がある」とありますし。 へー。というか「今でも」という表現がちょっと気になりますね。昔はどこでもやってたということ??

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冥婚はいつから?

川村邦光1997に、以下のようにあります:

高松観音のものも含めて、奉納年を記していないもの、また奉納年だけしか記されていな いものが多く、いつ誰のために奉納されたのかはなかなか分からない。明治期の絵馬は、日露戦争の死者のために奉納されたと思われる、1906(M39)年 のもの一枚くらいである。大正の年号の記された絵馬はいくつかあるが、絵柄とくに婚礼衣装、顔料、色彩の鮮度から判断すると、ほとんどは昭和期のものであ る。軍服姿の花婿の絵馬もあり、やはり近年に奉納されたアジア・太平洋戦争の戦死者のためのものである。 ‥(略)‥ 敗戦直後に奉納された絵馬はなく、ほとんど 1970年代に入ってからのものであり、おおよそ弔い上げになる33回忌の前後に奉納されていると推測できる。 ‥(略)‥ 最近、高松観音を訪れたが、10数年前と 比べて、ムカサリ絵馬が三枚ほど増えたくらいであった。先代住職の夫人に話をうかがうと、数年前に未婚のまま亡くなったある女性のために奉納されたきりだ という。 ‥(略)‥ 他方、立石寺奥之院は観光地として有名なせいか、新しいムカサリ絵馬が今でも奉納されている。それも山形県ばかりでなく、岩手県や仙台市からも 奉納されていた。(川村邦光(1997)「あの世は生きているか--現代人のあの世観--」(季刊仏教41来世の探求); pp.93--94)
また、青森県津軽地方にある同様の風俗の起源についても、以下のように言われています:
青森県津軽地方で“西の高野山”と呼ばれる弘法寺、 先にあげた川倉地蔵堂、岩木山麓赤倉の菊之道神道教社の地蔵堂でも、おびただしい花嫁人形・ 花婿人形が供えられるようになっている。弘法寺の住職によると、この花嫁人形・花婿人形の 奉納は1965年頃から始められたようである。この寺の信者の女性が亡くなった子どものために オモチャやお菓子を供えて 供養し続けているうち、子どもが生きていれば、そろそろ花嫁を もらう年頃だろうということで、花嫁人形を納めたという。 これが花嫁人形・花婿人形の奉納の始まりのようである。 川倉地蔵堂や菊之道神道の地蔵堂はそれからやや遅れるようであり、 70年代に入ってからのものが多く奉納されている。 」(川村1997, pp.94-95)

 また「日本全国賽の河原めぐり」の川倉賽の河原のページ [URL]にも「松崎の調査と考察によれば、津軽地方から広がったこの習俗の歴史は1950年以前には遡れない、とのことである。」とあります。 川倉については、こちら [URL]も。 地蔵様については、 西院河原地蔵和讃 [URL] 佛説延命地蔵菩薩経:訓読 [URL] をどうぞ。

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