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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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久保田名所記(1720頃)

 菅江真澄が1800年頃?に見てみたい、と言っていた 『久保田名所記』あるいは『窪田名処記』と同一なものかは不明ですが、 『久保田名所記』という書物が、秋田県公文書館にあります(東山文庫, AH291.5-2)。 そして、これを活字に起こしたものが『第三期 新秋田叢書 第13巻』に入っています。

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現存する『名所記』について

 この現存する『久保田名所記』についてですが、新秋田叢書の解題によれば‥

  • もともとの構成は 上中下の三巻本で、久保田の城下町についてが上巻、その周辺地域が 中巻および下巻という構成ではないか
  • ただし現存するのはこの三巻のうち中巻、 しかもその中巻全部じゃなくて、その前半部分だけ。
  • 執筆者は不明、執筆年代も1709(宝永6)年か
つまり全三冊のうち一冊、さらにその前半分ということですので、分量的には 本来の1/3の1/2、つまり1/6程度の分量のみ現存ということですね。

 古典籍の細かな年代推定などは私はアレなのでアレなんですけど。現存する文中に私も

人王三十八代天智天王之壬戌年より人王百十四代今上皇帝(注・中御門帝)御宇 享保五庚子年まて千五十九年に及へり。(p.233)
このようにあるのを見つけました。 宝永6年(1709年)、享保5年(1720年)、いずれも中御門帝のご在位期間(1709-1735)に 入ってますので、やはり時代的にはその頃なんでしょうかね[*註] いずれにせよ、私が目にすることのできた「くぼたふだらく」関連の情報では 最も古いものと言えそうです。

んで、本書が菅江真澄が言及した『久保田名所記』と同一かどうか、についてですけど。 なにせ菅江も『名所記』を見てないですし、その内容に関するヒントも一切書かれていませんので 何とも言いようがないんですけど。ですけど、 菅江が言及する本は「越前屋政貞が、慶安4(辛卯)(1651)年作」だそうですから、 現存する『名所記』が1709(宝永6)年作とすると、両者の間には約60年の開きが あります。んー、どうでしょうかね。ただ、この時代の、このへんの書誌情報というのは かなりテキトーな感じですから‥。

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巡礼の目的とか、日付とかは不明

 残念なことに、 現存の『名所記』から得られる情報は、一部札所がどこだったかに関する情報だけです。 そして、当初の『名所記』のごく一部だけしか現存していないため、たとえば 泉とか寺町とかに関する記述も当初の『名所記』にはあったと思われますが、 それらの記述は現存していないため参照できません‥。

 さらに残念なことに、現存する『名所記』には 巡礼はどの日に‥とか、巡礼の目的は‥といった類の話は一切書かれていません。 ですから、巡礼の日付は決まっていたのかとか、その類の話に関するヒントも 一切得られませんでした。残念です。

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『名所記』が語る札所情報

 さて。現存する『名所記』の内容についてです。ここでは無論、久保田三十三に 関する記述に注目する訳ですが。手形・桜・楢山・牛島のあたりに 久保田三十三に関する記述を見ることができます。

 『名所記』の中で「久保田三十三所」として紹介されているのは以下の 9札所となります(pp.229--232):

手形山本念寺(現03)、大沢山闐信寺(現02)、 楢山水井山清水寺(楢山)香哥山医王寺、 宝徳山満福寺(現06)、 牛嶋村得応山本迎寺、光蓮山弘願院(現08)、 菩提山仰信寺(現09)、月居山東泉寺
この9札所のうち、現在の久保田三十三には入っていない‥というか、 たぶん寺そのものが現存していない札所が4つ、ここに入っています (太字で示したやつです)。

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現札所だが、当時は違っていた寺院

 一方、現在「久保田三十三」として私の手元にある「ハンドブック」(S49版)に記載されている札所なのに 『名所記』ではそのように紹介されていない(つまり、お寺そのものは『名所記』で 言及されているけど、そこに「久保田三十三」という文言がついてない)寺院も存在します。 それが以下の2つです:

高顕山長泉寺(現04,05)、 安宗山玄心寺(現10)[*註]
(桜田山万雄寺(07B)もこのグループですけど、 萬雄寺は私の手元の「ハンドブック」では札所になっていませんので、ここでは無視しておきます。) また19世紀頃の七番札所だった牛嶋熊野神社の通称「メロリ観音」様は まだ存在しなかったはず[*註]ですので、 たぶん『名所記』の時期(1710年代)には熊野神社は七番札所ではなかったのでは? という妄想も可能だと思われます。ということは、現在の04,05,07,10の 合計4つの札所が、『名所記』の時代は現在と違う場所だった可能性がある、 ということですね。

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現存しない札所

‥‥はっ。偶然かもしれないですけど、 『名所記』の時代、手形楢山牛島近辺で「久保田三十三」として紹介されているのに 現存しない札所が4つ、そして現在は札所となっているが『名所記』にその旨の 紹介がない札所が04,05,07,10の4つ。数字的にはピッタリ一致してますね。 しかも十番札所以外の04,05,07番は、 現在、札所とされる場所が複数ある札所だったりして。 ‥偶然ですかね? それとあと「09番札所と10番札所が逆だったらいいのに‥」と私なんか思って いましたが、「あー、そういうことか。たぶん昔の10番札所が別の場所に あったからだな」などと勝手に思ったりしてます。

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楢山水井山清水寺、香哥山医王寺

明田(妙田)にある富士山、その麓にある4,5番札所がその痕跡と思われます。右図が 「御城下絵図(県C-599)」(1759(宝暦9)年) [APL]の、明田富士近辺です。 いちおう番号を付けていますが、どちらが04でどちらが05かというのは、テキトーです。

 清水寺について。『名所記』によれば‥

一、楢山水井山清水寺 久保田三十三所。 本堂馬頭観音、弘法大師御作。鎮守多門・持国・増長・広目四天王四社有、慈覚大師御作。 霊験あらたなるにより貴賎あゆみを運ふ。別当修験金剛院。(p.229)
こんな感じに紹介しています。 この「本堂馬頭観音」が右図の「馬頭観音」のことだと思われます。けど、 地図には「清水寺」とは書いてませんよね。この時点ですでに廃寺[*註] ?

 そして医王寺。『名所記』にはこうあります:

一、同所香哥山医王寺 久保田三十三所。本堂薬師如来。いつの頃か、薪の内に薬師の像有りしを崇奉りぬ。世に薪木 薬師と云り。霊験有かたき事ともなり。御堂の上の山ハ古館なり。香哥のあかしとやらん住けるよし故に、香哥か 館と云り。正観音、十王堂。別当修験吉祥院。(p.230)
「本堂薬師如来」と あり、それがこの地図の「薬師堂」と対応していると思われます。 でもここにも「医王寺」の字はなく、こちらも1759年にはすでに廃寺?

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牛嶋村得応山本迎寺

牛島ですから、ここが当時の07番札所だったんだろうと思われます。けど、 あちこちの地図を見てもまったく痕跡が確認できていません。んー。

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月居山東泉寺

「御城下絵図(県C-165)」(1742(寛保2)年) [APL] の地図を見てみますと。 「久保田三十三」の札所とされている月居山東泉寺は、仰信寺(現09)のすぐ裏にあったよう です(ただ「不動堂」の文字が大きくて、その横に小さめに「東泉寺」と書かれているところから 判断すると、1742年の段階でほぼ廃寺状態だったんでしょうか。1828年の地図 [APL]には 「不動」としか書いてません‥)。この東泉寺、 09番と11番の間に位置しているということで、やはり当初の10番札所だったんでしょうね‥。

ちなみにこの「不動堂」、いまも秋田市の保存樹(1977年3月指定)となっているイチョウの木が ある「不動さま」として存在感を出しています(右写真)。 お堂が2つあるんですけど、その詳細は不明です。片方は不動堂だと思いますが、 もう片方は観音堂だったりするんですかね? 札打ってそうな痕跡はなさそうですけど‥

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