The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".
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西国三十三の現存する江戸時代の札の数量を分析してみると、時期的に巡礼者の多い時期と、 そうでない時期に別れるんだそうです。多い時期は社会が安定し農業生産が向上した時期。 少ない時期は、飢饉や幕末の動乱などで社会が不安定なとき。このことから‥
上層農民・町人などを主体とし、しかも信仰心だけではなく解放感を味わえる物見遊山的 旅行の色彩も帯びるようになった江戸時代の巡礼の姿がうかがえるのである。 「道しるべ」「手引案内」「細見記」「細見指南車」「行程図」など題名はさまざまだが、 ‥(略)‥初心者向きの巡礼ガイドブックというべき「巡礼案内記」が多数出版されるように なったのも、こうした江戸時代における巡礼の性格変化の結果であろう。 (速水侑(1996)『観音・地蔵・不動』講談社現代新書1326.pp.193--194.)‥‥んで、おそらく菅江が言うところの『くぼたふだらくの縁起てふもの』も 巡礼ハンドブック的なものだと思いますので、 そのへん江戸とか西国とかと同じノリですよね、やっぱ。 [Table of Contents]
聖地と歓楽街の間には、単純に「聖地があって人が集まるから、そこが繁華街になる」 という以上の結びつきがあったはず、と山折1983は指摘しています。曰:
そもそも巡礼には、回国修行としての「遊行」と物見遊山としての「観光」という 二つの契機が重層的に含まれている。たとえば、伊勢参宮には、古市の妓楼での遊びがつきもの であった。参拝ののち、聖地巡礼の緊張を解かれた参宮客は、街道筋の飯盛女や茶汲女によって 身心の慰安を求めたのである。[Table of Contents]
同じことは善光寺詣や成田山詣にもみられるであろう。参詣客にとって、聖地の社殿や本堂の 門前にのきをつらねる門前町は、巡礼という受難の路を完成させる最後の道行きの場所である。 しかしその聖地の中心に到着してしまったあとは、そこはたちまち巡礼客の欲望をみたす 歓楽の舞台へと変ずるのである。(山折哲雄(1983)『神と仏』講談社現代新書, pp.156--157)
なお、秋田御城下の住人鈴木定行、加藤政貞の両人が不思議に古書を得て 「秋田六郡三十三観音」の巡礼を開始したのが1729(享保14)年と言われてます[六郡順禮記]。 ということは、この『名所記』の記述が本当に1720年代だとするなら、 彼ら二人は「久保田三十三所」を知っていた可能性がありますね。
‥‥てか可能性としては「三十三所」としての成立時期は久保田三十三所のほうが、 秋田六郡よりちょっと早かった可能性もあるってことか。へー。
[Table of Contents]余談ですけど。『名所記』には「久保田廿四番札所」という文言も存在しています。 文脈から判断すると、こちらは地蔵様順礼札所のようですが詳細は不明です。 ネットで「二十四地蔵」で検索すると あちこちに二十四地蔵札所がありますね。 24という数字の理由は不明です。24日はお地蔵様の縁日なので、そういうことなんでしょうか。
‥話を戻して「久保田廿四番札所」に関してですが、本書からは 光蓮山弘願院、安宗山玄心寺の2札所(どちらも現在の 久保田三十三に入ってますね。現08,10)を確認できます。
[Table of Contents]「メロリ観音」が旧七番札所の熊野神社に安置されたのは 1780年代だそうです[参考]。 んで、このメロリ観音様が熊野神社の観音堂に安置される前のことは今のところわかりません。 1780年代に新規に作成されたのか、あるいはどこかの寺が廃寺されたためそこに移されたのか‥
ちなみに『名所記』によれば、熊野神社観音堂と同じ牛嶋にあったはずなのに、その後 札所から外されている(廃寺?)「得応山本迎寺」の観音様について以下のように書いてあります。
一、牛嶋村得応山本迎寺 本堂正観音。抑此観音ハ人王百十一代後西院御宇明暦元乙未年九月十三日大洪水の時、木 の葉と同しく楢山川より流れ来り給ひしを、里人見付奉り、此所の氏神と崇奉る。此水上は大平嶽なり。誰の作と も知る人なし。誠にふしきともさまさま有。久保田三十三所、別当修験正覚院。(p.231)明暦元年は1655年。この観音様がひょっとして後に「メロリ観音」と呼ばれるようになった可能性も あるのかなあ、と。思うだけです。でも本迎寺って、たまたま流れ着いた観音様を (この川の上流は太平山、そこから流れてきた御神体(たぶん太平山三吉神社あたりが意識されてるのでは?)として) 村人が氏神としたものを 御本尊にしたお寺ということですよね。‥んー、神社に吸収されても全然不自然じゃない感じがまた‥
‥んー、でもダメかな。「秋田名蹟考」(1903(明治36)〜1910(明治43)年)の熊野神社の項に
俗称(めるり観音)と称せり。慶長五年三光宮より分社し、伝応山と云ふ。 如意輪観音を祀れり。 (『第三期 新秋田叢書(13)』p.155)とあるしなー。 熊野神社の「めるり観音」と「如意輪観音」が同じものとするならアウトか。 本迎寺の観音様は聖観音ですし。この「めるり観音」と「如意輪観音」が別ならいいんですけど‥ [Table of Contents]
菅江真澄「久宝田能おち穂」の「須受岐能観音」の項には「水井山清水寺大行院」という 名前が出てきます。大行院という別当もあったのでしょうか。確かに、 「羽州久保田大絵図」(1828(文政11)年) [APL]の明田のところ、富士山の麓を見てみますと、「馬頭観音」のすぐ隣が「大行院」に なってますし‥。
なお菅江の「須受岐能観音」の内容ですけど、 「上通町の商人が魚のスズキをさばこうとしたらなんか重い、調べたら一寸八分の紫銅の 聖観音が出てきた! のでこの菩薩を妙田村の修験、井水山清水寺大行院に寄贈した。 それが「すずきの観音」と呼ばれる」んだそうです。
一寸八分というのは、Googleによれば5.45454545cmだそうです。小さい‥。 この「すずきの観音」、現存してるんでしょうか。そのへんは不明です。
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