The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".
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『秋田県史 近世篇 下』によれば、秋田六郡は 「道程は約百六十里で、凡そ一ヵ月を要した」(p.733)とあります。 Googleで「百六十里」で検索[*]したら、 Googleが「628.363636キロメートル」と教えてくれました。
[Table of Contents]かくて「御詠歌」を キーワードにして「追善」と「観音様順礼」は結びつき得るんですけど、 実際、多くの「観音様順礼」からは追善的な気配をほとんど感じないんですよね。 不思議です。
これは「かんのんさま」に限った話ではないんですけど、今風の表現を使えば 観音様の「キャラが立っていない」ため、観音様は時には追善の手助けをしてくれるし、 時には現世利益を実現してくれるし、また時には子供の息災を保証してくれるし‥と、 場面ごとに想定される役割というか験の種類がコロコロ変わっちゃってますので、 それで何かいろいろなことがスッキリしなくなってるんですよね。 「かんのんさま」の他にも、「おじぞうさま」ももう完全にオールマイティーというか 「なんでもあり」な位置づけになってますし。 ‥ブッダとなってしまった仏・如来様より、まだブッダになってない菩薩様のほうが 親近感持ちやすいから何でもすぐお願いしちゃう感じでしょうか。 (ドラえもんに対する のび太 の如し‥?)
たとえばヒンドゥーのヴィシュヌ教だとヴィシュヌこそが最高存在で世界の全てであり、 クリシュナ、ブッダなどはヴィシュヌの顕現にすぎないなどの ような明確な規定、またチベットのように[観音菩薩=ダライラマ]的な 具体的な(社会的に有効な)定義あるいは性格付け(キャラ立て)があれば現状のような 「なんでもあり」状況にはならなかったんでしょうけどね。でも「親近感を感じる ご存在に全部お願い」の方が庶民的でよいのかもしれませんね。なお五来重(2007)は お地蔵様について以下:
「結局は日本人のもっとも根源的な信仰対象である「祖霊」または「先祖」 を仏教化したものにほかならないことがわかってくる(p.272)こう述べています。何だかんだ言ってこの考え方は割と腑に落ちて、面白いです。 [Table of Contents]
『秋田紀麗』の「七月」の項目を見てみると、この月は「秋府第一の遊楽月にして、 男狂し、女躍り」な月らしいんですが、
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