The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".
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(この項目、ここから、まったくの妄想話)
明治時代初期に起こった神仏分離令(1868(明治元)年)と廃仏毀釈(〜1871(明治4)年頃?)の流れは、
全国にあった「三十三観音」([ここ]によれば「写し霊場」と呼ぶみたいです)に
大きな影響、というより「被害」を与えましたが、
久保田三十三観音にも それなりに影響はあったようです[関連情報]。
このとき、いくつもの寺が
廃止されたり、また神仏分離によって観音様が別のお寺に移されたり、という
事例を見ることができます。07番札所が牛嶋熊野神社から宝袋院に移されたり、
矢橋天満宮や神明堂にあった30,31番札所が不動院に移されたり、といった
一部霊場のチェンジはモロにこの影響だと思われます。
なお、個人的にはこの神仏分離・廃仏毀釈の嵐が去った後、巡礼の復興の時期に、 おそらく、今のような形での巡礼風習が形成されたのではないかと憶測しています。 たとえば。かんのんさま巡礼よりも「先祖供養」の要素を前面に押し出す 現在のような 形にすることによって、廃仏派の人たちにも若干受け入れやすい行事にして、 札所巡礼の風習の生き残りを図ったとか。とくに根拠となりそうなものは 何もないんですけどね。
んで復興の時期にどの程度の復興活動があったのかは不明なんですけど。でも 久保田三十三番札所一覧 [URL]の ところで紹介したハンドブックを見てて気づいたんですけど。
07番札所が「宝袋院」、30番札所が「不動院」と、このへんは移転後の寺院名が 書かれています。でも、ハンドブック作成時(1974年)から見ても 廃寺から30年以上経過している「普門寺」(1940年廃寺)や20番「中央院」(廃寺時期不明) などが廃寺後になっても引き続き ラインアップされ続けている訳です。 これって変な話ですよね。
さらに。 2011(平成23)年1月の巡礼の際、最新版のハンドブックをいただいたんですけど。 このハンドブックによれば、2007年に行われた16番札所の変更が反映され 「寺町(光明寺内) 歓喜寺」となっていて「おー、さすが最新版!」と思ったのですが。 1974年のハンドブックですでに現状とそぐなわくなっていた札所、 13,20,22,33番札所については相変わらず江戸時代のままの表記になってました。 こうなると何故16番札所だけ直したのか、 16番を現状に合わせるんだったら、他の札所も合わせればいいじゃん! と 私などは思うのですが、そうなっていない点が個人的に非常に不思議でした。 やっぱり何かあるんでしょうか。んー。 [詳しくはこちら]
何故こんなことになっているのか。 理由はよくわからないんですけど、私なりに妄想してみました。 廃仏毀釈の後、1887(明治20)年頃(? 根拠ナシ。全国的傾向として観音順礼ブームがこの頃 あったらしいということで、たぶんこのへんかな、と)に作り直された「巡礼札所一覧」があって、 その一覧が1974(昭和49)年になっても使い続けられている、というか、準拠され続けている 状況があるんだろうと思われます。
そして、その「準拠され続けている札所一覧」が流布した以降に変更された札所、 たとえば 32:普門寺とか、16:歓喜寺 については 変更後の札所についてもカッコ付けで (全良寺内) とか (光明寺内) のように 札所移転情報を追記するけど、それ以前に移転したものは、そのまま。‥‥という状況が、 たぶんあるんだろうなー、と思います。
となると。「準拠され続けている札所一覧」というのは自然発生的にできたものではなく、
誰かが何かのキッカケで復興させたもの。それが今も
活きているのではないかとも妄想したりします。どのへんなのかなー。
(この項目、ここまで、まったくの妄想話)
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