たまたま、見つけたんですけど。
札幌市役所のサイト(?)に、 「悲願の本願寺道路」[URL]というページがあるんですけど、その中にこんな文が:
秋田の話をする前に、廃仏毀釈についての一般的な話から。
話は、新政府によって1968(明治元)年に神仏分離に関する通達が出されたところから始まります。 王政復古するから、宗教についても太古の昔のように祭政一致でいくから、それゆえ神社から 仏教色を排除せよ‥‥そんな内容の通達です。通達はあくまで「神と仏を分離、つまり 両者の線引きをキッチリと行え」というもので、とくに仏教をツブすという 意図はないような感じではあったみたいなんですけど。
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しかしこの通達が引き金になって、それまでの社会矛盾が あちこちで爆発したようです。 しかし、どこで何が爆発するというのか。どうやら爆発したのは、 自分たちの身分が認められた神社の職員たちだったようです。ある本に曰:
社人の私憤、為政者の思惑、いずれにせよ廃仏毀釈の裏には経済問題が隠れているようです。
[Table of Contents]この神仏分離に対する反応は、寺院ごとにバラバラだったようです。 政治的に非常に重要なものとして位置づけられていた寺院、たとえば奈良の興福寺は トップには代々皇族貴族出身の人を迎えていた訳ですけど。そういう寺院の トップの人たちは 篤い宗教心ゆえに出家したのではなく、いろいろな政治的な状況に基づいて 出家していることが多いため、神仏分離令が来たら割と簡単に還俗して神官になってしまう パターンも多かったみたいです(臼井2006,p.113; さらにこの興福寺の状況について 「奈良の町民たちは、まったくの無関心な状態にあった」(臼井2006,p.120)とも)。 世俗的繁栄を謳歌していた鶴岡八幡宮も同様に、 トップの人たちは あっさりと神主化したようです(臼井2006,p.103)。
興福寺が割と簡単に還俗した理由の一つとして、鵜飼2018は その直前に滋賀の日吉大社で起こった神官らによる最初の廃仏毀釈暴動を挙げています(鵜飼2018, p.195, p.19)。
[Table of Contents]他方、為政者の経済事情絡みで、単なる神仏分離を行うだけでなく、ついでに 社寺の整理・統廃合までしてしまおうという動きもありました。 なかでも有名なのは1870(明治3)年の、富山。富山藩庁は、神仏分離のついでに 寺院の大幅な統合をおこなって、藩内においては一宗派を一寺にする、 そんな かなり無謀な計画をたてたみたいです。特にスゴいのが浄土真宗で、 富山藩内には真宗の寺が1320程度あったみたい(臼井2006,p.135)ですから、 それを一つにまとめるなんてどう考えてもムチャですよねそれ。 ちなみに、この富山藩の企みについては、結局は翌1871(明治4)年の廃藩置県によって ウヤムヤな解決になったみたいですけど‥。
[Table of Contents]それと佐渡でも廃仏は激烈だったみたいですけど、これもやはり行政の思惑があったみたいです。 明治維新の時期の佐渡は、人口約8万、寺院数がなんと539寺! つまり平均すると、一寺あたりの人口は約150人ということになります。一世帯4人とすると、 40世帯弱で寺を支えるのか‥ (臼井2006, p.140)。 そこで当時の判事の奥平という人(長州出身)が、この539ある寺を ほぼ1月のうちに80に統合せよとの指令を出して、大混乱‥ (1868(明治元)年11月〜12月)。 それ以外にも「説教をしてはいかん、法要をつとめてはいかん、出家をすすめ てはならん、仏殿や仏堂をつくってはならん、仏像はもちろん、木像といえども新規の造営はいっさ いまかりならん。自分の子供を出家させてもいかん。葬儀をやって火葬にしてはならん……但し僧侶 と穢多非人は別だ……というのだから、徹底した宗教の弾圧だったのである」(臼井2006, p.147) ‥と。それほどの弾圧をしたにもかかわらず、寺院の合併は予定どおりは進まず、 結局135寺の合併(それでも寺院数を1/4にまで圧縮)で終わったとのこと。
奥平判事が出した火葬禁止(土葬)令、これについては‥
また佐渡の寺院の中には、奥平のあまりの強引さに、京都の本山に泣きついたところも あったみたいですけど「隠岐の国の廃仏ときたら、もっと凄惨をきわめて、とても佐渡の比では ないのだ」(臼井2006,p.155)と返されたとか‥。 (隠岐国では「農民までが、仏教排撃に味方することになってしまった」 「仏像木像石像残らず御首を落とし」「仏像には糞尿をかけて汚涜し、 これを広場につみあげて、経巻とともに焼き棄てたのである」(臼井2006,p.158)‥ 一時期は こんな状況だったようです。ちなみに隠岐ではもともと尊王攘夷志向が強かったことも あり、京都で儒学を学んだ中沼を中心とした「正義党」が自発的に 廃仏毀釈を徹底的に断行したようです。鵜飼2018, p.140) しかし陳情の効果はあったようで、奥平は約一年ほどで罷免されたみたいです。
[Table of Contents]ここまで仏教側が一方的弾圧されている例をいくつか紹介しましたが、 場所によっては、たとえば三河や福井などでは、行政側の あまりの暴政に対して怒った民衆が 暴動をおこす地域もあったみたいですけど。
‥じゃあ、篤胤の出身地であるところの 秋田ではどうだったでしょうか。冒頭で紹介した文のように、 あの、廃仏毀釈が激しかったとされる越中(富山藩)、越後(佐渡)に匹敵するほど、 いやいや、それよりもっと激しい廃仏毀釈が行われていたりしたのでしょうか。
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秋田に神仏分離令が届いたのは1868(慶応4・明治元)年3月28日 (田中秀和(1997)『幕末維新期における宗教と地域社会』清文堂出版, p.269)のようです。 しかしその時期の東北は会津藩討伐するかしないかで緊迫していた時期であり、 この翌4月には奥羽越列藩同盟 [Wikipedia]、そして7〜9月には 秋田戦争 [Wikipedia]‥と続いており、この時期の藩には 割とどうでもいい(?) 神仏分離令に対処する余裕は なかったようです。 実際に藩が神仏分離に向けた調査を開始したのは おそらく翌1869(明治2)年に入ってからで、 その際には、秋田藩を奥羽越列藩同盟でなく新政府軍側に加担させた原動力と目される、 平田国学の影響を受けた下級藩士らのグループ(通称「砲術所グループ」?)が、 当然ながら 影響を与えたようです。
[Table of Contents]ここで注目されたのが秋田市寺内にある古四王権現社。 「古四王権現は氏子中でも聖徳太子が全国に建立した四六ヶ所の四天王寺の一つとしての縁起を 持っており」(田中1997, p.280)、つまり、神社というよりは寺院に近い由来を持つと 考えられていたようですけど[秋田33-24]。 ここで砲術所グループの小野崎通亮という人が中心となって、 古四王権現から仏教的要素を全部削りとって「古四王神社」とし、さらにそれを正当化するため(?) 「古四王神社考」(秋田叢書3; [NDL];コマ番号261〜) なる書物まで出してしまいます(1870(明治3)年)。ここで「四天王寺と聖徳太子に付会するのは後世のもので、 古四王は越王で神であるとの見解を打ち出す。この序文で小野崎は天皇が神仏分離をするのは 祭政一致の根元であり、異教を予防する干城なのだと述べる」(田中1997, p.281)。 ‥んー、さすが平田国学に影響されてるだけありますね。宗教の中に「政治」を見てます。 古四王神社における神仏分離を、秋田藩における神仏分離のモデルケースにしようとする意図でもあったんでしょうか(1869(明治2)年〜1871(明治4)年)。
ちなみに、この「祭政一致」について、臼井2006は「尊王と攘夷が、政治の指導理念だった明治維新初期の段階では、鼻いきがあらかったが、すでに新政府となり、積極的に開国し、文明開化の方向に 時代が大きく変わってゆくようになると、もう無用の理論となり」 「尊王攘夷から開国進取の方向へ新政府の方向が変わってゆけば、もはや、具体的な政治理論としての 指導性をうしなってしまう」‥と述べています(臼井2006, p.185)。 「祭政一致」という、仏教伝播以前もどの程度 本当に行われていたのかよくわからない、 非現実的とも思える方針は、 既存の伝統をブチ壊すという点では ものすごい破壊力を持っていたわけですけど。 現実的に新しい「何か」を作り上げていくのには ちょっと向いてなかったんでしょうか。
[Table of Contents]このような 上の人たちの行動を、庶民はどう見ていたか。 ‥結論から言ってしまえば、ずいぶん冷ややかに見ていたようです。
[Table of Contents]当時の状況についてですけど。菅元弘『飛耳記』によれば、1869(明治2)年7月頃に、こんな:
たとえば。大久保在住の菅原源八という人は、以下のように書き残しています。
この他にも、神仏分離に関して、1870(明治3)年に「仏信心之婆共へ」という戯文が出たそうです。 その中身といえば:
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この庶民の冷ややかな心情は、実際に「それ以後明治六(1873)年に至っても神社社地内へ 仏塔が建てられ、神社から排除したはずの仏像の神体が信仰され、民俗的な石碑などの 建立が続けられた。村中では神仏混淆の様相は容易に変わらなかったのである」(田中1997, p.279) という感じの行動からも裏付けられます。 たしかに 水神社 [URL]とか、 主祭神は「水波能売命」とされているみたいですけど、それは誰がどう見てもダミーで、 実質的な ご本尊は千手観音様ですしねー。他にも 薬師神社(一時期、少彦名神社とした時期もあった模様) [URL]とか 薬師神社(三十三観音あり) [URL]とか、 観音社 [URL]とかもありますけど、これらもやはり 上からの圧力を、庶民がテキトーにやりすごした結果という感じになるんでしょうか。 (ただ鹿角は佐竹領になったばかりのはずですから、ちょっと雰囲気は違っていたかもしれませんけど)
[Table of Contents]どうでもいいことですけど。
平田篤胤翁(1812(文化9))『霊能真柱』の中に、老婆の信心についての ちょっと触れている箇所がありましたので、紹介しておきます。
(^o^;
[Table of Contents]こんな感じで、藩の中には平田系の人たちがいて、発言力を持っていたにもかかわらず、 藩全体としてみると、神仏分離も、廃仏毀釈も、かなり骨抜きな感じで行われていたようです。
これってやっぱ、その直前にあった「秋田戦争」の被害がデカすぎて、そこからの復興を まずしないといけない状況があった、というのが結講デカいのかもしれませんね。 王政復古の新体制か、あるいは奥羽越列藩同盟かといったイデオロギー対立の結果が 秋田を主戦場とした秋田戦争であった、と。そして ようやく戦争が終わって、 ようやくイデオロギー対立から解放されるかと思ったら今度は 「仏か神か」というイデオロギー対立が持ち込まれてきた。さすがにそれだと 「もう、そういうのは、いいよ」という気分になりますよね普通。それがこの庶民たちの 冷淡な視線に表れてるんじゃないかと思ってしまいます。