[Table of Contents]はじめに
真冬の時期に、祭の参加者がみな全裸で神符争奪戦を繰り広げることで有名な
妙見山黒石寺の「蘇民祭」。いまでは有名になりすぎて全裸はダメ、
褌着用すべし‥といった感じになっていますけど。
(テレビ等で一時、騒ぎになりましたよね。
ポスター掲示拒否問題(2008)とか)
[Table of Contents]18世紀、菅江はこう聞いた
菅江真澄の本を読んでたら、蘇民祭が全裸となった起源について菅江が耳にした話
(1786(天明6)年)が書かれていましたので、ちょっとメモっておきます。
山内(水沢市)というところにでた。妙見山黒石寺という修験寺がある。もと太上神仙をまつ
った寺で、大同のころ、飛騨の工匠が集まって、一夜のうちに建てたという、たいそう古びた
堂である。急いだために板なども全部に敷きわたさず。とりのこされたところがあった。正月
八日の夜は、祇園の削掛、尾張の天道社の祭のように、夕方から夜中まで誰かれの区別なく互
いにののしり、根もない冗談話に尾ひれをつけて、憎らしそうに言ってはうち笑い、さわぎた
て、堂をたたきながら火をたきたてるので、あれほど積もっていた大雪も二月、三月の春暖の
ころのように、みな消えはてるのだという。一番鶏の鳴くころ、その長さ三、四寸ばかりの、
科の木皮の二重布でつくった長い袋のなかに、三、四寸ほどの木に書いた蘇民将来の神符を千
枚以上も入れて、その袋には蝋を流し、また油をぬって神武神仙の御前にそなえる。山伏が法
螺貝を吹き、経をよみ、加持祈禱をして、その長袋を群集の中へ投げてやると、左右の二方に
わかれて、素裸で褌もつけず出てきた若者たちが、その袋をわが方に取ろう、こちらに奪おう
と上を下へと押しあい、もみあう。この争いで、むかし、褌の前垂が袋の端にからみ、それを
力まかせに捻あい、ひきあううちに、陰嚢が破れて死んだ人がでたので、それから褌というも
のをけっして身にまとわなくなったという。この蘇民将来の神符をとることのできた組のほう
は、その年の田畑がよく実るといわれる。夜もしらじらと明けるころ、袋をつかみ破り、また
奪いとり持って、雪を踏み散らして駆けだし、小川の氷をふみ破ってとびこんで、淵に身を潜
めようとするのを捕えてひきとめるなど、世にも珍しい争いの祭である。この妙見山黒石寺に
は円仁慈覚大師の薬師仏の仏像が秘蔵されている。
(菅江真澄(内田・宮本 編訳)(2000)「はしわの若葉」『菅江真澄遊覧記2』平凡社ライブラリー341.,
pp.70--71.) (原文は以下から参照可能::
菅江真澄「はしわのわか葉」(秋田叢書刊行会 編(1932)『秋田叢書. 別集 第5 (菅江真澄集 第5)』),
p.103
[NDL]
[佐藤弘弥氏「奥州デジタル文庫」])
「この争いで、むかし、褌の前垂が袋の端にからみ、それを
力まかせに捻あい、ひきあううちに、陰嚢が破れて死んだ人がでたので、それから褌というも
のをけっして身にまとわなくなったという。」‥キンタマ破裂! ひえー。
でもこれが本当とするなら、今はまた褌着用アリとなってるんですけど、陰嚢破裂の虞は
もうなくなったと理解してよいのでしょうか????? あるいはヒモが切れやすくなってる、
なんか特別な褌だったりするんでしょうか。んー、気になる‥
[Table of Contents]黒石寺は巨刹だった
ちなみにこの黒石寺、どうやら かなり古くて、かなりデカかった、ということは断片的には
わかっているものの、当時のことがわかる文献がほとんどないため詳細がわからない‥といった
感じの寺みたいですよね。佐藤2003によれば以下:
黒石寺は縁起に記された「四十八院」を有するとい
う表現が誇張ではないほどの、多数の伽藍を有した時代があった。
黒石寺の近辺には山内川がつくる谷戸に沿って、黒石寺との関連を思わせ
る地蔵堂跡、文殊堂跡、聖観音堂跡、大日堂跡といった堂宇の遺跡が存在する。また、寺
の裏山は妙見山、大師山とよばれ、かつて山上にはそれぞれ妙見堂と大師堂があったこと
が知られている。さらに国道三四三号線を一キロほど進んだ先には御経塚山がある。平安
時代に流行した、埋経の跡を思わせる地名である。
黒石寺にはいま、伽藍の中央に本尊の薬師如来像を安置していた薬師堂がある。この建
物自体は明治時代の建築だが、寺地の形状からみて、創建当初からこの周辺に伽藍の中心
をなす金堂が存在したことは疑問の余地がない。かつて黒石寺は薬師堂を金堂とし、大師
山頂上一帯の大師堂・入定窟を奥の院とした、広大な地域を占める巨刹だったのである。
(佐藤弘夫(2003)『霊場の思想』吉川弘文館, p.93)
痕跡によれば、かなりの巨刹だったようですね。それが痕跡しか残っておらず残念‥
と言いたいところですけど。
思えば、東北地方としては かなり古い時代の創建といった感じのようですから
廃墟にならず現在まで残っている、しかも そこで行われる祭が全国で話題になってる、
そういう点では逆にかなり頑張って現在まで残ってるという評価のほうが
適切なのかもしれません。
[Table of Contents]おわりに(追記2023)
かなり有名になっていた蘇民祭でしたが‥
令和7年以降の黒石寺蘇民祭については、実施しないこととなりました。
その理由は、現在祭りの中心を担ってくださっている皆様の高齢化と、今後の担い手不足により、祭りを維持していくことが困難な状況となったためです。
[ 令和7年以降の黒石寺蘇民祭について ]
このような発表が 2023(令和5)年12月にあり、
2024(令和6)年2月17日(土) が最後の蘇民祭になるようです。
こういう民俗伝統行事の世代交代の難しさを感じますね。
観光イベントとして商業化に成功した祭しか残れなそうですね
(2023/12追記)
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