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[Budh] オウム真理教「ポア」との関係

題 [Budh] オウム真理教「ポア」との関係
日付 2015.3



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はじめに

[ [Budh] 仏世尊は異教徒殲滅を容認?! (霊異記/涅槃経) ] の「ふろく」部分を 独立させました。

NHKスペシャル取材班編著(2013)『未解決事件 オウム真理教秘録』文芸春秋社. に、 「一九八九年二月、信者殺害事件が起きた直後、富士山総本部道 場で麻原が行った出家信者向けの説法のことだ。麻原は、この説法で「殺人=ポア」であるとし て殺人を肯定した」(p.349) とされる、通称「三百人の貿易商の話」、 その元ネタが『佛説大方廣善巧方便經』(大正0346; [SAT])らしい、と紹介されていました。

 へー、と思いましたので、ちょっとここで紹介します。大雑把度が高めな 大雑把訳です。

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大雑把訳

智上。私の過去世の話だ。そのとき商人五百人が財宝を求め出航した(175c07)。 それとは別に悪商人が一人いて、商人たちを殺して財宝を奪おうと考えた(10)。 商人五百人の中にいた善御という男(仏の前世)が、そのとき夢を見た(13)。 大海神が出現して、こう言うのだ。---

「汝等商人の他に、もう一人商人がいる。 そいつは悪人で、財宝を奪うため、商人らを殺そうとしている(16)。 珍宝を奪って、贅沢しようとしている(17)。 だから儂は汝にそれを教えるのだ。どうすべきか思案せよ。 この悪人は殺人しなければ地獄の報いは免れる(19)。 商人たちも命を保てば「このうえなきさとり」に到達する。 しかし悪人が彼らを殺せば、その行為により地獄に堕ち、 そこから出てこられない(22)。だから彼を救済すべきだ。」

 そこで善御は夢から覚め、こう思った(24)。---

「私はどうすべきか。 悪人は殺人しなければ地獄の報いを免れるし、商人たちの命も助かる。」
‥こうして一週間ほど悩んだが、何も思いつかない(27)。 ついに思案をあきらめ、こう決意した。---
「悪人の命を断つしかない。命を断てば、彼は 殺人せず、地獄の報いを受けない(29)。 商人たちの命も助かる。またもし自分が商人五百人とともに 彼を殺せば、五百人が皆地獄に堕ちてしまう(176a02)。 自分一人で殺そう。 殺人してしまうと、百千劫のあいだ、地獄の報いに耐え続けねば ならないが、かの悪人が地獄苦を免れ、商人たちが難を 逃れるのならば‥」と(07)。

 こう思った商主は、すぐに殺人した。 その悪人は死後すぐに天界に生まれ変わった(09)。 ‥(略)‥ こうして菩薩摩訶薩は長い長い輪廻の最中にあっても、いろいろ 工夫しながら衆生を救済しているのある(14)。 このとき、菩薩摩訶薩が悪業を得ることはない。 仏菩薩のおこないはすべて清浄である(15)。

おお! これはまさに、アレですね。「このままだと悪人は地獄堕ちだから。それを 救済するにはこの手段しかない!」と救済のために殺人してしまってます。 本当だ‥。

 ちなみに。仏の前世が殺人を決意するところだけ原文を紹介しておきます:

但當於彼興殺心者先與 斷命。彼斷命故不造殺業免地獄報。 (pp.12:175c28--c29)
[大雑把訳] 悪人の命を断つしかない。命を断てば、彼は 殺人せず、地獄の報いを受けない。

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仏は前世で殺人した過去があった‥

 これをどう解釈するか。これは「救済」という名目がちょっと目につきますけど、 基本的には 他のページで紹介した [ 仏敵を殺しても地獄に堕ちない ] と同じパターンですよね。 何かいろいろ言い訳してますけど、つまりは仏が前世で人を殺してしまってた‥というやつ。 何故こういう話があるかというのは よくわからないんですけど。ただ、 殺人を犯してしまってそれをものすごく後悔している人がいて。そんな人には未来永劫 「さとり」の機会はないのか? 輪廻的世界観のもと、未来永劫その罪業を背負って生きていく しかないのか?? もう普通の人と対等になれないのか??? ‥そういう話になった場合、そんな大罪を犯してしまった人でも、 その後じゅうぶん反省して善行に励めば、十分「人並み」に戻れるし、 「さとり」に達する機会も 他の人と同じくらい、ちゃんとあるんだよ、 だから あきらめずに善行に励んでね。‥ということを伝えるためには、 こういったエピソードが有効だという判断でもあったんですかね。 あって当然だとは思いますけど。

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しかし殺人は大昔の話でしかない

 ‥と、こんな感じで。 たしかに仏は前世で人を殺してしまったというエピソードは存在しているわけですけど。 でも決して(今生で)殺人した訳でも、 殺人を奨励している訳でも、殺人を指示している訳でもないですよね。 単純に、仏も 仏になる前、遠い前世で人を殺したことがある、という話ですから。

 しかし、それを文脈から切り離して強引な解釈をほどこして、 現在の自分たちの行動指針にしてしまうというのは、何というか‥。 ひどいなー、と思います。けど、ここで紹介した部分を元ネタにした オウム真理教の「三百人の貿易商の話」は ちょうど信者殺害事件(1989/2)の直後のものらしく、つまり 信者殺害の実行犯たちの心をおさえるためのものだとすると‥。んー。 もとは、過去の殺害行為に対する言い訳だったものが、 現在これから行う殺害行為の正当化へと発展していったんでしょうか。

 ‥いや、それは違うか。麻原の通称「三百人の貿易商の話」、それと同じことはその前、 オウム真理教における最初の信者死亡事件(1988/9)より前の、 1988年7月にすでに語られていたみたいですから。曰:

グルのためには殺生ですらしな ければならないとかね。例えば、大乗の戒において、ここで五百人の衆生が苦しむんだったら、 殺されるんだったら、その殺す人を殺しても構わないとか (NHKスペシャル取材班編著(2013)『未解決事件 オウム真理教秘録』文芸春秋社, p.211)
‥‥んー。ここではまだ「ポア」という言葉とは結びついてないのかな?? でも、そのぶんハッキリと「殺す」という言葉を使っていて、麻原の意図が鮮明ですね。 「ポアしてあげる」は後付けですね、やっぱ‥。 [ [余談] 「ポア」とは ]

 でもこの「ポア(という口実による殺人)」のアイデアって、チベットのどこかから 持ってきたのかと勝手に妄想してたんですけど。 「寶積部・涅槃部」から(かもしれない)というのはちょっと意外でした。

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[ふろく][memo] 慈悲の殺生

誰がどのへんで主に使っていたのか、というのがイマイチわからないんですけど。 なんか「慈悲の殺生」という言葉もあるみたいですね。探してみたら以下のような 記述のある戯曲を見つけました:

こうなるからはいっそのこと、女を殺すのは却って女を救うので、いわゆる慈悲の殺生であるかも知れないと考えた。 [ 鳥辺山心中 岡本綺堂 (1917(大正6)) (※最後のほう) [青空文庫] ]
互いに惚れ合っていた侍(半九郎)と遊女(お染)がいて、その半九郎が ちょっとした諍いで 同僚を斬り殺してしまった。かくなる上は切腹を‥と。そこにお染が ひとり残されてはたまらん、 一緒に殺してほしいと懇願してきたのでどうする? という場面です。 一人だけ残していく訳にもいかんだろう、ここで「女を殺すのは却って女を救う」と 判断してそれを「慈悲の殺生」(かも知れない)と呼んでます。

 この「慈悲の殺生」という言葉、ここで岡本氏が思いついたのか、あるいは すでにあった言葉なのか‥。このへんちょっと気になったので、とりあえずメモっておきます。

 ちなみにそこからちょっと時代が下がった戦時中になってくると以下:

それは戦前の仏教界が戦争に協力するために生み出した論法そのものであった。「不殺生戒」を持つ仏教であったが、仏教教団のほとんどは安谷白雲や沢木興道らに代表される戦時教学を形成。「爆弾を投げる不殺生」などの言辞を生み出した。 [ 野田正彰 「オウムを生み、オウムに怒る私たち とは誰か?」 ]
あの頃、日本の仏教界は、『慈悲の殺生は菩薩の万行に勝る』なんていっていたのですよね。 [ 【書評3】滝本太郎弁護士ホーム・ページから ]
こんな事例も出てくるみたいなんですけど‥。 (ちなみに「慈悲の殺生は菩薩の万行に勝る」というのは「放生川」に出てくるのは見つけました[ [宝生流謡曲]本. 16放生川 ] [NDL] (左頁2-3行目)。 「方便の殺生だに。菩薩の万行には超ゆると云ふ」 [ 宝生流謡曲 「放生川」 ] けど、この「放生川」がこれを一体どこから持ってきたかは不明のまま‥)

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[ふろく] [朝鮮] 政治状況と不殺生戒の折合いは難しい

6〜7世紀頃の朝鮮。仏教の流入・浸透により「不殺生」に関心が集まる中、 他方の政治軍事的状況は高句麗・百済・新羅の三国時代であり、どうしても 敵を殺さないと自分たちが生き残れない‥。そんな状況の中、 新羅の元暁(7c)、義寂(7c〜8c)などは 政治的状況と宗教的教義の 両立をはかろうとしたみたいです。そこで出てくる説というのが‥

殺人をしても一向に福となって罪にならない場合がある。それは[殺 すものが]輪廻と衆生の機根に通達した菩薩であるから、機根を正しく することができる。[また殺されるものも]戒めを守れず悟ることがで きない機根だからである。この時の殺生はただ福となって罪にならない。 経にも五百婆羅門を殺したが、罪とならず攝化したとあるのがその例で ある。(尹鍾甲(2008) 「新羅仏教の死生観と生命倫理:義寂の殺生無罪論と太賢の由食至殺論を中心に」 (印度学仏教学研究56-2;p.993) [CiNii])
‥「すなわち、新羅仏教は仏教の戒律と教理を護国仏教という現実的状況に合うように 弾力的に解釈して受容したのである」(尹2008,p.994)ということ みたいなんですけど。

 ここでは「五百婆羅門を殺したが、罪とならず攝化した」という事例が、 その議論の正統性を 示すものとして例示されています。「三百人の貿易商」の話とはちょっと 違う用例みたいなんですけど、でもオウムの「ポア」とかなり 類似の使われ方をしているのは間違いないですよね。 こういう解釈、オウムに限ったことではないのか‥ というのにちょっと驚きでした。しかもこれ、ちょうど日本に仏教が 入ってきた時期とほぼ同じ頃じゃないですか。ということは、ひょっとして 最初期の日本仏教にもこういう考え方があった可能性もあるという ことですよね。へー。


関連(?)情報

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