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[memo] 地獄絵を見つめる人々

題 [memo] 地獄絵を見つめる人々
日付 2013.2



平安時代に‥というか、今も一部では行なわれているようですが、 「仏名会」という行事が行なわれていました。 詳細(というほどのことは書かれていませんが)は、 導師ジャパン::仏名会 (平安時代) [URL] あたりをご参照いただければと思うのですが、 毎年十二月年末頃に三日間、導師様をお招きして、地獄絵かな?の屏風絵を立てて、「仏名経」なるお経 [URL]を詠み、 各自がおのれの罪障を懺悔し、その消滅を願う行事です。

 この行事、清少納言が活躍した時代(西暦1000年頃)もバリバリに行なわれていたようで、 『枕草子』を見ると そのときに使った「地獄絵の屏風絵」にまつわるエピソードが 書かれてたりするようです:

『枕草子』第76段(萩谷朴氏の校注、新潮日本古典集成本による)を 要約してみよう。
 御仏前の果てた22日、主上(一条天皇)は部屋中に「地獄絵の御屏風」を広げて、 中宮様(定子)にお見せになった。私(清少納言)は、気味悪くて見ることができない。 中宮様は「さあ、見なさいよ」とおっしゃるけれど、私は気味悪くて小部屋に隠れて伏していた。
美しいものを求める耽美家の清少納言は、「地獄絵」を見つめることができなかった。 (錦仁(2003)『東北の地獄絵 --死と再生』三弥井書店, p.47)
(「御仏名のまたの日」. 対応部分は、岩波文庫版(池田亀鑑校訂(1962)『枕草子』,岩波書店.)では p.100; 枕草子は本ごとに構成に違いがあるので、 『枕草子』章段対照表が便利。)

ニヤニヤしながら清少納言をからかう中宮と、青ざめて逃げてしまう清少納言‥。 (この情景は、私の勝手な妄想です^^;) 彼女らにとって地獄絵というのは、今の感覚でいえば完全にホラー映画とか 心霊写真とか、そういった類のものですよね。 地獄絵を見るという行為が、一種の「こわいものみたさ」「肝試し」的ノリに なってるんだろうことはわかります。

 しかし、と話は続きます。 地獄絵とか悪霊話を、単なる「こわいものみたさ」的扱いで見ていなかった人も 同時代にはいた、という話が続きます。それは‥

だが、その醜悪な「地獄絵」をじっと見つめる者がいたのではなかろうか。 おのれの内面を凝視する鋭い感覚の持ち主がいたと思われる。
 清少納言と同じ時代に生きた紫式部は、地獄絵ではないけれど、絵を見つめて、 次のような歌を詠んでいる。『紫式部集』(新潮日本古典集成本による)から、 現代語に直して紹介しよう。

絵のなかに、「物の怪」が憑いた「女」の醜い姿が描かれている。そのうしろに、鬼と化した 「もとの妻」が小坊師に縛られている。夫の男は経を読んで、今の妻(「女」)に憑いた 「物の怪」を追いだそうとしている。
亡き人にかごとをかけてわづらふも おのが心の鬼にやはあらぬ
‥(略)‥

 「もとの妻」はなぜ死んだのか、家集からはわからない。詞書は、「もとの妻」が 死んで鬼となり現在の妻にとりついたと見ている。絵の制作者も、当時の人々もそう 考えたのだろう。

 だが、紫式部は、別の見方をしている。「物の怪」が現在の妻に憑いたのは、 「もとの妻」のせいではなく、「おのが心の鬼」、男の内面に潜む鬼のような心だと 見ている。男は「もとの妻」を裏切って新しい女を得たのに違いない。自分が悪いと 思う気持ちがあるから男はいっそう熾烈に昔の妻を怨む。「あの女が祟っている。 悪いのはあの女だ」と思いこむ。昔の妻のせいにして自分の責任を忘れようとする。 だから、かえって昔の妻のことが怖くなる。(錦2003, pp.47--48)

紫式部は、女に取り憑いた「物の怪」は 死んだ女の亡霊とかいうそんなオカルトなものではなく、 死んだ女の亡霊を怖れる、そんな男の「おのが心の鬼」に他ならないのでは、と 解釈しています。さすが『源氏物語』の作者だけありますね。 発想をそこに持ってくか! という感じで。

 さて。何でこの描写に私が「おっ」と思って、わざわざメモを取ったかといえば。 べつに「清少納言は軽い。紫式部のほうがスゴいじゃん」なんてことを 言いたいのではなく。「同じものを、同じだけ(いっしょけんめい)見たり聞いたり したとしても、そこからどういう情報を受けとるか、何をどれだけ読み取るか、 というのは人ごとに全然ちがう。そしてそれは、各人の能力の差ゆえに ではなく、 各人がもつ『おのれの問題意識』は何か、またそれと情報がどうマッチしているか というあたりで決まってくるのだ。つまり『能力がある人ほど いろんな情報を 読み取ることができる』という単純なものではなく、『問題意識が強い人ほど、 その問題意識に応じた いろんな情報を読み取ることができる』である」(長ッ!)‥ ということの例になるかなー、と思ってです。 (そしてたぶん、いろんな物事を面白がることができる人と、 何を見ても退屈にしか感じることのできない人の差というのも、 このへんにあるんじゃないかと。)

 清少納言が紫式部より頭が悪い‥なんてことではなく、人間が抱える「業」について、 清少納言よりも紫式部のほうが ものすごく関心を寄せていた。だから紫式部は、 単なる「物の怪」の絵であるはずのものから 男の心の闇を読み出してしまった (そしてそれは間違ってはいない)、ということですからね。たぶん。


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