江戸時代など盛んだった「庚申信仰」について。私はどうしても腑に落ちないことがあります。 そこで「庚申信仰」について、とにかくメモを残していこうと。そんな感じのページです。
[Table of Contents]「庚申信仰」って知ってますか? 町中とか歩いてると、ときどき「庚申」と書かれた塚というか石塔というか石碑というか、そういうの 見たことないですか? [参考]
昔の人たちが何故こんなのを建立したかというと、そこに出てくるのが庚申信仰、そして 「庚申待」「守庚申」という行事です。干支が「庚申」の日の夜、普段は人間の体内にいる「三尸」という虫が 人間の身体を抜け出し、自分のイヤなことを「天帝」にチクりに行く。 それによって自分にとっては不利な情報、隠しておきたい情報が「天帝」に筒抜けになってしまい 自分の寿命を削られてしまう。 それを防ぐため、自分の身体から「三尸」の虫が出て行かないように夜通し起きて見張る。 --- これが「守庚申」という行事の主な目的とされています。
[Table of Contents]この「守庚申」という行事には、「三尸」「天帝」など、普段我々の耳慣れないキャラが 出てくる訳ですけど。これはどういうことかといえば。この風俗はもともと中国にあったもので、 それが日本にも輸入されてきた。そんな感じみたいです。んで、この風俗が、 江戸時代を中心として 庶民のあいだで大流行した、と。 (これ、NHKの「タイムスクープハンター」でも取り上げられてましたね。)
しかし。ここで私がどうしても腑に落ちないのは「三尸」「天帝」です。江戸時代に、 庶民のあいだで大流行したのであれば、日本文化のあちこちに「三尸」「天帝」を感じさせる 文化の名残があってもおかしくないはずですけど、これらは庚申信仰以外の文脈で 見たり聞いたりすることがほとんどありません。とくに「天帝」など、それほど重要な キャラであれば勿論 仏像菩薩像などと並んで「天帝像」とかがもっと大量にあっていいはず ですけど、そういうのはあまり見かけないですよね。
日本の場合は、祭祀対象となる いろいろな神様と、仏菩薩を 「本地」というキーワードで合体、あるいは対応付けをおこなうことも 多いんですけど[たとえば地蔵十王経]。 天帝の本地はあの仏様‥とかいう設定も、寡聞にしてほとんど聞いたことが ありません。庶民のあいだで大流行した宗教行事の主役の一人としては、天帝様、あまりに 影が薄すぎないですか??? 庶民のあいだで「守庚申」が盛んであったことは、 「庚申」と書かれた塚とか石碑が大量にある以上、事実であったとしか言いようがないとは 思うのですけど。しかしその主尊であるはずの天帝様の影が薄すぎる、つまり 庶民が「庚申」に込めた思いというのは、もっと別のところにあったんではないですか? ‥そのへんに何か違和感を感じないですか?
石の宗教 [ 五来重 ] |
そんな中。 五来重『石の宗教』(2007)に、以下のような記述があるのを見つけました。 庚申は 中国の「三尸」「天帝」に関連したものが 日本に伝えられたものですけど、 それが貴族たちの間で流行した、と。これは本来的な「守庚申」だったんですけど。 この流行はやがて修験の山伏たちによって庶民にも広められるようになるのですが、 それが伝えられる際に
んで、この庶民の「守庚申」、 「庚申待[Wikipedia]」と呼ぶこともあるみたいですけど、 とにかく一晩中起きてる点は道教由来の守庚申と同じではあるけれど、
しかしこの五来説には、重大な問題があるようです。それは‥
(^_^;
(もちろん「作神だ」とする人たちも いることはいますけど、決してそれは多数派とはいえず、
ましてそれが本質かという話になると怪しい、という話。窪1956,p.74)。
そして。私にはどうしても気になる「三尸・天帝の痕跡が日本に残ってなくね?」 という点について、窪1956はこんな感じに言っています:
庚申信仰 [ 窪徳忠 ] |
でも三尸も天帝も何だかよくわからず祭をしていた、という話になると、 祭の目的は何? ということが不思議になってくるんですけど。 窪1956では上記のような「豊作」ではなく、ズバリ「長命」が目的だろう、と言ってます。 古代日本において‥
ただこれは平安時代、そもそも日本で何故「庚申待」をするようになったか、 という話なんですけど。でも「とにかくエラい人が『やった方がいい』と言うから、やった」 という構図は後代の、民衆に広がった「庚申」でもそのまま当てはまりそうな話ですよね。
でもちょっと気になるのは、庶民レベルでやられてる「庚申待」が 青面金剛・猿田彦などの神仏を拝むスタイルになっていて、それは 中国から入ってきて平安時代に貴族たちがおこなっていた守庚申と違いすぎてないか? ということなんですけど。
これについて。まず中国における三尸説の展開なんですけど、三尸説は中国でかなり 流行したらしく、やがて道教の枠をこえて儒者、 そして仏教の人たちにも唐末頃には普及していたらしいです(窪1956,pp.234--238) (また中国ではやがて三尸説と北斗信仰が結びつき、その結びついた形のものも 仏典経由で日本に伝わった? と窪1956,p.265)。 そして清代中国での庚申会の内容といえば、徹夜して諸仏を崇拝するという、 日本の庶民的な庚申待とかなり似た感じの儀式になっていたようです(窪1956,pp.238--242; 清代以前は? というと史料がなく不明といった感じ)。
つまり「庚申」の日本への浸透ルートは 中国における道教思想が平安時代に日本に入ってそれで終わり、という訳ではなく。 仏教化した庚申、徹夜で神仏に礼拝する形式の仏教的庚申も 中国における仏教信仰の一部として いろいろなルートで 日本に伝わった可能性もあったのかもしれません。 日本人にとっては、やっぱ仏教信仰の一部としてのほうが受け入れやすい感じになりますからね。
ちなみに。民衆レベルの守庚申ではよく青面金剛がご本尊といった形の 位置づけになっていることが多いですけど。現存する石碑などを見ると、 江戸時代初期(1980頃まで)は弥勒・阿弥陀・釈迦などの仏教の仏菩薩が刻まれた石塔ばかりで、 青面金剛が出てくるのはそれより後、猿田彦はもっと後、そんな感じみたいです(窪1956,p.103)。 なぜ庚申=青面金剛になったのか? 真相は不明ですけど、窪1956は以下のように推理します。
また、なぜ庚申と青面金剛が結びついたか? については菊地2012に以下:
別の本を読んでたら、こんな記述も見つけました:
日本の道教遺跡を歩く [ 福永光司 ] |
馬頭観音に「馬」の文字が入っているから、だから家畜の供養と結びつける‥と。そういう 伝統が日本にはありますから。ですから「申」の字つながりで庚申と猿が結びつけられるというのは、 いかにも、といった感じですかね (庚申と猿田彦の結びつきもどうやら「サル」だろ? という 感じみたいですから;窪1956,p.153)。
それと個人的には「ごちそう」というのは現実的には非常に重要な視点だよなあ、と グッときました。
[Table of Contents]ここまで述べてきたように、生前の善悪行をチクられて‥というと、天帝三尸虫コンビよりも 「地蔵十王経」[URL]に あるような閻魔同生神コンビのほうが、日本人にはピンと来るんじゃね? とか、 私は思っている訳なんですけど。そのへんと何か関係していそうな用例を見つけましたので、 ここにメモしておきます。
茨木の元行(1568;永禄11)『針聞書』[URL]という書物があるんですけど。 この中にある「蟯虫」というページ。人に害を与えるものとして、絵を交えて、 ずいぶんユーモラスな姿で描かれていますけど。 この虫がどういう虫かという説明が、この絵の上に、こんな感じに書かれています:
‥おお! まさにこのページで私が思ってることと、絶対何か関係してきそうなネタですよね。 「庚申」の名のもとに、「三尸」だったものを「蟯虫」、 「天帝」だったものを「閻魔大王」に、それぞれ書き換えています。そして『針聞書』が書かれたのは、 日本で「庚申待」が盛んになる江戸時代の、ちょっと前‥。んー。 『針聞書』のこの記述を どう理解すべきかというのは、現状よくわからないです。けど、 とにかく言えることとしては、 何で「蟯虫」とか「閻魔大王」という単語に書き換えたかといえば、たぶん何よりも 「三尸」とか「天帝」という単語でピンと来なかったから。 だから、もっとシックリ来る別の単語に変えたんですよね。 まさに三尸の日本的需要ですね。
‥‥なんて思ったんですけど。 じつは中国でも「三尸」はいまいちピンとこなかった人が多いみたいで、 日本と同様、蟯虫的なものと混同されて理解されてるパターンが多かったみたいです(窪1956,p.195)。また当初(抱朴子,4c頃?)は「三尸」という名前の一匹の鬼神だったものが、いつしか「三匹の尸」と 解釈されるようになっていった、とか(窪1956,p.196)。 まあ、民間に流布する伝承って、基本、どこでもそんな感じなんでしょうね。
[Table of Contents]その後、さらに調べてみたら「庚申縁起」もしくは「庚申因縁」なる書物があり、 それが江戸期以降の、庶民的な庚申信仰と関係しているらしいことがわかりました。
この「庚申縁起」についてはかなり多くのバリエーションがあるみたいですけど。 現存するものの中では成立が最も古く、そして最も流布してるのではないか? と 思いたくなる「天王寺系」と言われるもの、なかでも宇佐八幡蔵といわれる 『庚申因縁記』を ようやく見つけました[リンク先に大雑把訳があります]。 1496(明応5)年作であるかのように書かれてますけど、真偽のほどは不明です。
‥「天王寺系」ということで、非常に当然のこととは思うんですけど。 完全に仏教化したものですね。「三尸」も後半に一応出てはきますけど、 なんか完全に盲腸みたいな感じ、単なる「邪なもの」程度のものになっていて 「天帝」とは全然結びつかなくなってますね。 そしてその天帝は「帝釈天」。庚申を行うと、帝釈天が守庚申をした人の 氏名をメモして、その人のために動いてくれる‥。 これ『地蔵十王経』における以下:
この「右の神」を髣髴とさせますよね。つまり「天帝」の解釈の中に、 なんかウッスラと閻魔王が入ってるような気がします(上でも紹介した茨木の元行(1568;永禄11)『針聞書』[URL]だと「閻魔大王」になってましたね。三尸じゃなくて蟯虫ですけど)。 「天帝」は日本人には何だか訳わからなかったから、 閻魔大王とか帝釈天とかに変更されてるんですね。
「衆生は皆、それぞれ「いっしょに生まれた神」(同生神、魔奴闍耶)を持つ。 左の神は悪行を記録する。羅刹のごとき姿で、決してその者から離れず、どんな些細な悪事でも 書き漏らさず。右の神は善行を記録する。こちらもどんな微善でも記録する。 (地蔵十王経::閻魔王 の大雑把訳)
そして守庚申の目的がすごい。前夜に過去仏を、中夜に現在仏を、後夜に未来仏を 念仏することにより、過去現在未来における悪業消滅‥。そして、あわよくば 天酒菩薩のように、菩薩様になってしまおうなんて‥。 夜通しおこなう、単なる仏教行事になってますね。 だから、ということでしょうか。先祖供養とも豊作とも、そして本来の目的であるはずの 健康長寿とも 何の関係もなくなってますけど。どういうことなんだこれは‥