『高僧法顯傳』[SAT] の中で、 仏教経典がどんな感じで伝播されていったのか、伝承されていったのかについて、 ちょっと「おお」と思う箇所があったので、忘れずメモしておきます。
[Table of Contents]以下は法顕がスリランカにいるとき記述した部分の一部を、私が大雑把訳したものです。
仏鉢と弥勒菩薩のストーリについては、ひとまず置いておいて。法顕が見聞きした 状況についてまず見てみます。
「高座で経を唱える」というのは、つまり、お寺の奥にこもってかなり高度な修行研究などを 行うのとは違って、街中で、庶民に向かって説法を行う 状況が想定できます。 街中で、行き交う人たちを対象とした説法をおこなう場合、あまりに難しすぎることを 滔々と述べたとしても、たとえそれがどれほど大事な 正しい言葉だったとしても、 たぶん誰も食いついてこないことは容易に想像できますよね。 だって、退屈だもん。街中での説法は、たぶん、そうじゃなくて、 とにかく人々に興味を持ってもらえそうなことを語って、 それで人々が耳を傾けてきたら、細部は多少いいかげんでも構わないから、 自分の伝えたいことを、人々に飽きさせないように、話す。‥‥こんなステップが 必要になるんだろうと思います。 (「そんなの、いいのか」と思うかもしれませんが、とにかく興味を持ってもらって、 それは結構大事だよなと思ってもらってから、その後から、じっくり深く語るというのは 何かの基本的なテクニックですよね。) だから、話す内容は、なんかの「お経」をそのまま 読み上げるんじゃなくて、話しながら、聴衆の反応を見ながら、徐々に、 聴衆の反応をつかみやすい(教化しやすい)ストーリーを 徐々に作り上げていく、と。そんな感じになるんだと思います。 だから法顕に「そのお経をコピーしたい」と言われても「そんなのは、ない。 オレの心中にあるものを語っているのみ」という答えになるわけですよね。 んで、こんな感じの説法に込められた思想と、その地域時代の庶民の思想世界観が 混じり合うと、いろんな新しい思想が発展して広がっていく契機になっていくんだと思います。 ここにあげた法顕の体験て、そういう感じの状況が当時のインド(スリランカ)にあったことを 感じさせる事例の一つですよね。ということで、忘れないようにここにメモしておきます。
[Table of Contents]
なお、ここで法顕が紹介している、仏鉢と弥勒出世のストーリーについて。
読み返してみると、なんかスジが通ってないような気がします。これ、物語構築がアドリブ的なので
辻褄合わせがあまり重視されてないからなのか、あるいは、私の理解が不十分だからなのか、
そのへんいまいち自信がないのですが、それはここでは触れないことにして(^_^;
たとえば中国とか日本の弥勒信仰の場合、どうやら「仏教経典に説かれた弥勒出世」とは 異なる何か、具体的には救世主的なイメージ、が入ってるという指摘が多く、 なるほどねー、とも思うんですけど (どのへんにリンク張るのがいいのかな? あれこれ まとめてある[「弥勒(ミロク=マイトレーヤ)」とは何か][URL]のへん?)。 それに対してスリランカのこの例で語られている弥勒菩薩のキャラを見てみますと、 なんか、きわめて仏教的だな、という印象を受けてしまいます。 西アジア系の人たち、隊商として中国に行く人はいたとしても、 スリランカに行く人はそんなにいなかった、だから西アジア的な「ミスラ」「ミトラ」的な 考え方はスリランカには浸透しなかった、という感じなんでしょうか。 (以上、単なる妄想でした。) (でも、スリランカで説法していたのは「天竺の道人」と書いてあるよな。んー)
[Table of Contents]仏教が民間の人たちにどのように伝えられ、広がっていったか。 このことを感じさせる記述を見つけましたので、ついでに ここに 紹介させていただきます。昔の中国の事例のようですけど‥
「大衆布教のスタア」がいて、その節廻しを取り入れた歌曲までが作られ、 芸能とほとんど変わりない‥。やっぱ、とにかく「興味を持ってもらう」 ことが出発点になってる訳ですから、 それを考えると やっぱ、そうなるよなー、という感じですよね。
今の人だって、なんだか小難しい お説教なんて聞きたくないのに。 まして「お勉強」なるものをしたことが ほとんどないであろう、 昔の大衆なんて尚のこと「そんなのは御免」という感じでしょうしね。