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[Budh] 仏教の伝承伝播増広の過程に関連してそうな事例(法顕伝)

題 [Budh] 仏教の伝承伝播増広の過程に関連してそうな事例(法顕伝)
日付 2012.9



『高僧法顯傳』[SAT] の中で、 仏教経典がどんな感じで伝播されていったのか、伝承されていったのかについて、 ちょっと「おお」と思う箇所があったので、忘れずメモしておきます。

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「法顕伝」にみる大衆教化の現場

以下は法顕がスリランカにいるとき記述した部分の一部を、私が大雑把訳したものです。

[大雑把訳] 法顕はこの国で、天竺の道人が高座で経を唱えるのを聞いた。 中身はこんな感じ: 「仏鉢はもと毘舍離にあった。今は揵陀衞にある。 数百年後には西月氏国、そして数百年ごとに于闐国‥屈茨国‥師子国‥漢地にあり、 その数百年後には天竺に戻り、兜術天に登るはず。それを弥勒菩薩が見て 「釈迦仏の鉢が来た!」といって神々といっしょに7日供養するはず。 その後、鉢は閻浮提に戻り、海竜王が竜宮に入れる。弥勒成道のとき、 鉢はまた4つに分かれ、もとの頞那山の上にあるはず。弥勒が覚るとき、 過去の仏たちと同じことを四天王が行うだろう(四天王が仏にそれぞれ鉢を献上し、 仏が超自然力で4つの鉢を一つにする)。 賢劫千仏は皆、おなじこの鉢を使うのだ。鉢が去ると仏法は衰退すると 人の寿命は短くなり5歳にまでなる。そのとき 粳米酥油は皆無、人民は極悪で草木を手に取り刀杖として傷つけあう。 福を持つものは山に逃げ込むが、悪人が全滅したのち戻ってきて 「むかし人の寿命はすごく長かったが、悪をなし非法をなした結果、 寿命がこんな短くなり、ついに5歳になった。善を行い、慈悲心を起こし、 信義を修行しよう」と言い合い、それぞれ信義を行う。すると 寿命がのびて8万年になり、弥勒出世の時になる。弥勒初転法輪のとき、 まず釈迦遺法に従う弟子出家人などを度し、二回目三回目で有縁のものを 度すだろう」‥法顕はこの経のコピーが欲しかったが、その人が言うには 「此無経本我心口誦耳」つまり、 いまの話には経本がなく、ただ私が口で唱えてるだけだと。 [原文(SAT)はこちら]
(対応訳文: 長沢和俊訳注(1971)『法顕伝・宋雲行紀』(平凡社東洋文庫) pp.144--146. [ 注1 を見る ] )

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高座と「経本はない」

 仏鉢と弥勒菩薩のストーリについては、ひとまず置いておいて。法顕が見聞きした 状況についてまず見てみます。

 「高座で経を唱える」というのは、つまり、お寺の奥にこもってかなり高度な修行研究などを 行うのとは違って、街中で、庶民に向かって説法を行う 状況が想定できます。 街中で、行き交う人たちを対象とした説法をおこなう場合、あまりに難しすぎることを 滔々と述べたとしても、たとえそれがどれほど大事な 正しい言葉だったとしても、 たぶん誰も食いついてこないことは容易に想像できますよね。 だって、退屈だもん。街中での説法は、たぶん、そうじゃなくて、 とにかく人々に興味を持ってもらえそうなことを語って、 それで人々が耳を傾けてきたら、細部は多少いいかげんでも構わないから、 自分の伝えたいことを、人々に飽きさせないように、話す。‥‥こんなステップが 必要になるんだろうと思います。 (「そんなの、いいのか」と思うかもしれませんが、とにかく興味を持ってもらって、 それは結構大事だよなと思ってもらってから、その後から、じっくり深く語るというのは 何かの基本的なテクニックですよね。) だから、話す内容は、なんかの「お経」をそのまま 読み上げるんじゃなくて、話しながら、聴衆の反応を見ながら、徐々に、 聴衆の反応をつかみやすい(教化しやすい)ストーリーを 徐々に作り上げていく、と。そんな感じになるんだと思います。 だから法顕に「そのお経をコピーしたい」と言われても「そんなのは、ない。 オレの心中にあるものを語っているのみ」という答えになるわけですよね。 んで、こんな感じの説法に込められた思想と、その地域時代の庶民の思想世界観が 混じり合うと、いろんな新しい思想が発展して広がっていく契機になっていくんだと思います。 ここにあげた法顕の体験て、そういう感じの状況が当時のインド(スリランカ)にあったことを 感じさせる事例の一つですよね。ということで、忘れないようにここにメモしておきます。

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弥勒信仰にまつわる、簡単な妄想

 なお、ここで法顕が紹介している、仏鉢と弥勒出世のストーリーについて。 読み返してみると、なんかスジが通ってないような気がします。これ、物語構築がアドリブ的なので 辻褄合わせがあまり重視されてないからなのか、あるいは、私の理解が不十分だからなのか、 そのへんいまいち自信がないのですが、それはここでは触れないことにして(^_^;

 たとえば中国とか日本の弥勒信仰の場合、どうやら「仏教経典に説かれた弥勒出世」とは 異なる何か、具体的には救世主的なイメージ、が入ってるという指摘が多く、 なるほどねー、とも思うんですけど (どのへんにリンク張るのがいいのかな? あれこれ まとめてある[「弥勒(ミロク=マイトレーヤ)」とは何か][URL]のへん?)。 それに対してスリランカのこの例で語られている弥勒菩薩のキャラを見てみますと、 なんか、きわめて仏教的だな、という印象を受けてしまいます。 西アジア系の人たち、隊商として中国に行く人はいたとしても、 スリランカに行く人はそんなにいなかった、だから西アジア的な「ミスラ」「ミトラ」的な 考え方はスリランカには浸透しなかった、という感じなんでしょうか。 (以上、単なる妄想でした。) (でも、スリランカで説法していたのは「天竺の道人」と書いてあるよな。んー)

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[ふろく] 中国における大衆教化

仏教が民間の人たちにどのように伝えられ、広がっていったか。 このことを感じさせる記述を見つけましたので、ついでに ここに 紹介させていただきます。昔の中国の事例のようですけど‥

<俗講>つまり通俗な語り物の文芸の世 界である。<俗講>というときの<俗>は、実は通俗ということでは なくて、「僧俗」とか「化俗」とかいう場合の「俗」であり、つまり 俗人の一般大衆を対象として仏教を分かり易く語って聞かせる講釈が <俗講>である。中唐から晩唐にかけての文献に出てくる俗講僧の文 淑(または文〓)というタレントになると、いつも聴衆がたくさん詰め かけ、寺院からも丁重に扱われ、その節廻しを取り入れた歌曲までが 教坊で作られたという。それも、趙璘の『因縁録』によると、「経論 の所説にかこつけて、淫穢鄙褻なことばかりを語っていた」という、 相当の卑俗化ぶりであった。ここまでくると、元来は俗衆を仏教信仰 へいざなうという建前からの方便であったはずの俗講は、大衆の歓心 を買って人気を博するための職業的な芸能と、ほとんど変わりはなく なっている。 (入矢義高・古田和弘(1975)『仏教文学集』平凡社:中国古典文学大系60, p.425)

 「大衆布教のスタア」がいて、その節廻しを取り入れた歌曲までが作られ、 芸能とほとんど変わりない‥。やっぱ、とにかく「興味を持ってもらう」 ことが出発点になってる訳ですから、 それを考えると やっぱ、そうなるよなー、という感じですよね。

 今の人だって、なんだか小難しい お説教なんて聞きたくないのに。 まして「お勉強」なるものをしたことが ほとんどないであろう、 昔の大衆なんて尚のこと「そんなのは御免」という感じでしょうしね。


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