春秋に二度ある「お彼岸」の墓参り。 この理由とか起源て何なんだろ? というのがちょっと気になったので調べてみます。
[Table of Contents]まず最初は辞書でしょう。「お彼岸」について辞書を引いてみます。 引いたのは「大辞林」。そこに曰:
春分、秋分は「真東から日が昇り、真西に日が沈む」特別な日と考えられていたことは 間違いないでしょうから、そうすると「太陽信仰」「太陽崇拝」との関連が考えられるのは 非常に自然な話。
それとここでちょっと気になるのが「崇道天皇」。806(大同元)年に崇道天皇のため 全国の国分寺の僧が金剛般若経を読ませたとあります。んー。 崇道天皇といえば 「御霊」の筆頭格の方ですよね。 つまり「(奈良時代末期(785年)に亡くなった)怨霊鎮撫の法要を(平安時代初期(806年)に)春分・秋分に行ったのが『お彼岸』の起源」ということになりますね。
出典を探してみました。ネット上の情報ですけど、関連した記述はこのへん:
文脈を見ると桓武天皇が亡くなる直前に (たぶん)史上初の彼岸会が行われていたことがわかります。 ということは主目的は延命祈願?? いろいろな不幸が早良親王(崇道天皇)の怨念のせいと思われていて、 桓武天皇の寿命を縮める最大要因もやはりそうだろうと確信されていて、 それゆえ早良親王の怨念を鎮めて 桓武天皇の寿命を先に延ばそうという意図があったんでしょうかね。 (早良親王の逝去は延暦4年、「崇道天皇」追称が延暦19年、 天皇陵作成が延暦24年、彼岸会が延暦25年。 桓武天皇時代は後になればなるほど怨念への恐怖が増してますよね) (この延暦25年の春の彼岸は2月23日あたりのはずで、桓武天皇逝去が3月17日)
‥とも思ったんですけどね。桓武天皇じゃなくて次に即位する平城天皇のためと 説明してる本を見つけました:
でも何故わざわざ「お彼岸」の日を選んで法要したのかは よくわからないな‥。
[Table of Contents]上で紹介した所先生の本、p.22 に「彼岸は日願(ひがん)じゃないか」という五来説を 紹介してます。(五来『宗教歳時記』)。五来先生、すごいなー。
春分・秋分におこなう法要を「お彼岸」と呼ぶのはいつ頃? については以下: 堅田修(1964-02)「平安貴族の仏事について(講演要旨)」『大谷学報43(3)』, pp.62-64 この要旨が参考になります。
[Table of Contents]「お彼岸」は「春分」および「秋分」の日を中心に行われます。 なぜ春分・秋分かといえば、それらの日は太陽が真西に沈む日ということが たぶん重要なんでしょう。
^^;
なので「真東」が西と同等に重視されるとしたら日本古来からの何かが?! ‥なんて
思ってしまいそうになりますが、どうなんでしょうかね。
「修行にあて」「死者と繋がる」など、 それぞれ微妙に違ってるのがちょっと面白いですね。 この「死者と繋がる」ですけど、「秋の彼岸のときにお寺で 亡くなった人の姿を見たとの証言があった」という文脈から言及されていることから、 「西方に極楽浄土あり」という仏教的世界観ベースの話のように見えます。
[Table of Contents]彼岸会そのものは『観無量寿経』に説かれる「日想観」に基づいて、到彼岸のために春秋の彼岸に仏事が修せられたものとも考えられている。善導和尚は『観経疏』「定善義」にて以下のように説く。 一には衆生をして境を識り心を住めしめんと欲して、方を指すことあることあり。冬夏の両時を取らず、ただ春秋の二際を取る。その日正東より出でて直西に没す。弥陀仏国は日没の処に当りて、直西十万億の刹を超過す。すなわちこれなり。 (彼岸会) 日想観か。まず「日想観」の原典とされる『観無量寿経』の日想観は‥
実際、上で紹介している「彼岸会」の説明で言及されている 善導和尚の『観経疏』を見ると
でも日想観にしろ、善導和尚にしろ、中国から来たもののはずですから、 それだったら春分秋分も中国でも何かやってるのが自然のはず。 中国で春分秋分がそれほど重視されてないとしたら、 なんで日本でそんなに重視されるようになったか?? というのは読めないですよね。
日本は、極楽浄土に対する希求心が異様に高かったから??
「彼岸とは涅槃(ねはん)の世界の意で,煩悩の此岸(しがん)に対し,悟りの世界に至る願望(到彼岸)を表す。中日(ちゅうにち)の日没が真西に当たるので,西方浄土を希求する願いが民俗と合した行事か。」 (百科事典マイペディア) ん?彼岸=涅槃の世界=悟りの世界=西方浄土ということ?? 西方浄土、悟り、この2つは結びつくんですかね。極楽浄土って、単純に「救済の、約束の地」で あって、悟りと極楽浄土は「直交した概念」と違うんですかね? あるいは宗派によっては悟りと極楽浄土が結びついてたりするんでしょうか??
日本に於ける彼岸会は、『日本後記』巻13の「大同元年(806)3月辛巳の条」に、「諸国の国分寺の僧をして春秋二仲月別七日に、『金剛般若経』を読ましむ」とあるのが初出とされています。この由来は、中国で偽経の『提謂経』『浄土三昧経』に於いて、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至の「八王日」に読経持斎すれば、寿命が増長するとされていることに基づき、この中の春分・秋分の二会を彼岸として法会を行ったと考えられています。 (今日は秋彼岸会の中日です(平成22年度版)) ‥‥「寿命の増長」が起源ということ?
(鎌倉期になると「日本国の風俗、春二月・秋八月の彼岸修崇の辰有り」となってますけど、 もと延命祈願だったのが、 この時期には「彼岸の法会」で衆生を度す云々‥とあるから、生きた人を対象とした 仏教行事に変化していて、それが、いつのまにか先祖供養の行事に変化したという感じですよね。 「ぼた餅」「おはぎ」は神への供物、みたいな話が ここの下のところにちょっと出てきてますけど、 そのへんの解釈はちょっとわかりません)
(単なる断片集ここまで)
[Table of Contents]お彼岸は日本独自の行事と言われています。その根拠の一つして挙げられるのは、 13世紀に中国から日本にやってきた大休正念の一言。大休正念は 彼岸について「日本国の風俗、春二月・秋八月の彼岸修崇の辰有り」と書いているらしく(今日は秋彼岸会の中日です(平成22年度版))、 つまり中国には類似の行事はなかった、ということになりそうなんですけど。
しかし、中国には、こんな例もあるみたいです。物語なんですけど‥
竜飛公というのは、この物語の主人公にとって ご先祖筋にあたる人です。 つまりこの「春秋の墓参」というのは、いま日本で行われる「お彼岸の墓参り」と ほぼ同じに見えますよね。 仏教行事ではなかったかもしれないですし、春分秋分の日かどうかもわからないですけど。 しかし、『聊斎志異』は17世紀末〜18世紀初頃のはずなので ちょっと時代は後になりそうですけど、 その頃の中国には 春秋に墓参りに行く風習が、あることはあった感じですよね‥。
試験を済ませて帰宅すると、東原に墓所を造り、竜飛公のお骨を移して 手厚く葬った。その後も春秋の墓参を絶やしたことがなかった (10-20竜飛相公) (立間祥介 編訳(2010)『蒲松齢作 聊斎志異』(ワイド版岩波文庫), p.下330.)
(ちなみに当該部分の中国版のWikisource見ると、原文は 「既歸,營兆東原,遷龍飛厚葬之;春秋上墓,歲歲不衰。」 [zh.wikisource]。 たしかに「春秋」となってますけど、これは「春と秋の彼岸」というより「毎年」と考えたほうが自然な気がするぞ‥ )
(書きかけ。さらなる情報が入ったら追記予定)