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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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現代的札打ちの直接的起源は? (妄想篇)

とりあえず、確たることは何もわからないので、ひたすら妄想してみます。

 西来院(秋田市寺内) [URL]の ブログ「大きな小住」の2010/1/15付記事[URL]に「先祖供養のために江戸時代に始まった この行事は、江戸末期に東北地方を襲った飢饉の犠牲者供養が起源とも言われる。」と あります。(同様の記述が「今月の浄土新聞」(2007/3月号)[URL]にもあります。どちらも情報源は同じ当福寺のような‥。)

 この記事をどう解釈するか。江戸中期に行われていた「くぼたふだらく」と 現在の「札打」を(とくに理由もなく)同一視してるのは間違いで、 両者のあいだには何らかの決定的な断絶があるのではないか、一度途絶した伝統を 誰かが別の意味を持たせて意図的に復活させたのではないか。 それが江戸末期起源説の由来ではないか、と。たしかに 近世篇 [URL]で紹介した 文献は皆1820年代までのものばっかりで、 幕末期に入った1830年代から明治維新(1868年)までの状況を 追えてないですし。

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妄想1:天保の大飢饉(1833)

‥となると、ここで私は 明治維新の時期(1860年代末)に「くぼたふだらく」に大きな転換があったのではと 妄想している訳ですが、それよりも前、江戸末期の飢饉(天保の大飢饉? 1830年代)を 境に何かがあったことになるでしょうか。たしかに天保の大飢饉、とくに 最悪だった(らしい)1833年には久保田藩の人口の約1/4が餓死、つまり、 おそらく半分以上の人が餓死するかしないかの瀬戸際まで行っていたと思われますので、 それほどの大災害が人々の心境に何らかの影響を与えても自然ですからね。

 ちなみに。全国各地で行われる盆踊りも その起源をたどると大飢饉があったから、と いう指摘もあるみたいです。室町時代におこった応永の大飢饉(〜1421(応永28))の後、 百万遍念仏の大流行(緊急なもの。供養・生者の祈祷)→月次念仏(定期的なもの。追善・鎮魂)→盂蘭盆の念仏躍り(そして伝統行事へ) と変化した結果うまれて定着したのが「盆踊り」であり、

この伏見荘の例にかぎらず、大飢饉を契機にして村の年中行事がはじま るということは、決して珍しいことではなかったようだ。‥(略)‥ たしかに飢饉 や旱魃は彼らにとって悲惨な経験だったが、その後、そこから立ち直る過程で、ここでも 彼らは村としての結束を強め、旱魃下での雨乞いを、その後も長く続く地域の年中行事へ と昇華させていったのである。 (清水克行(2008)『大飢饉、室町社会を襲う!』吉川弘文館・歴史文化ライブラリー258,pp.204--206)

このような一般的傾向はあるみたいです。

 幕末期の秋田でも同様に、 飢饉が終わった直後に「追善供養のための行事」の一つとして「札打ち」が 新たに行われた、という可能性も非常に高そうです。ただ何故にそれが「お盆」ではなく 正月になったのかは不明ですけど。 (まさか「お盆」期間はお寺が忙しいから、その時期は避けて‥なんてことではないと 信じたいですけど^^;)

(ちなみに。天明飢饉(1782〜1788)については [ [book] 高山彦九郎(1790)「北行日記」にみる天明飢饉 ] をどうぞ。)

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妄想2:日露戦争(黒溝台会戦)(1905)

あるいは。飢饉・維新以外の可能性としては戦争、時期的には日露戦争(1904(明37)〜1905(明38))も アリかなとは思ってます。山形県の最上地方におけるムカサリ絵馬も 「戦死者のために奉納されたものがきわめて多い」(川村邦光(1996)『民俗空間の近代』,情況出版, p.298.) ようですし、戦争が民俗宗教に与える影響は大きそうだと思うからです。 ネットでごく軽く調べてみましたが、秋田関係では第8師団(弘前)配下の 歩兵第17連隊が秋田の郷土舞台であり、

日清・日露戦争に参加、特に日露戦争では明治38(1905)年、黒溝台の激戦で274人の戦死者を出した。 (秋田の基礎知識:: 歩兵第17連隊)
日露戦争の「黒溝台会戦」は1905(明38)年1月25日〜1月29日に極寒の満州での戦いです。 この戦争で第8師団は「死傷5割程度で全滅に等しい状態」だったそうですから、かれら英霊たちの慰霊として、一周忌に近い 正月16日にお札まいり‥という展開なら可能性はありそうですね。

 ただ川村1996によれば、 山形県のムカサリ絵馬の奉納が多いのは1960〜1970年代、 戦死から33回忌での奉納のパターンが多い、つまり 戦時中とか戦争直後の非常事態がかなり過去のものになってから奉納が増えているということなので、 「日露戦争があったから その時期に巡礼の風俗が変化したのかも」という憶測を 支持する材料にならないですね。んー。

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妄想3:秋田戦争(1868)

幕末から明治初期に起こって 秋田の人たちが大被害を受けた戦争といえば 「秋田戦争」(1868)というのもありますね。

 ‥でもどうですかね。 Wikipedia見ると佐竹家の死傷者は461人と書かれてますので、 黒溝台会戦の死者数よりはるかに大惨事であった訳ですけど。でもこの前後に 新政府から「神仏分離令」が届けられ、庶民レベルではともかく 藩士レベルでは「廃仏」的な動きもない訳ではなかったですから(詳しくは[[メモ] 秋田における神仏分離]を参照してください)。 これは ちょっと時期が悪すぎな気がします。

 でも、どうかな。足軽な人たちだったら、一部の上の人たちがやろうとしていた「廃仏」とは 関係なく「かんのんさま巡り」も可能かなあ‥

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