[ふろく]我が妄想1
これまで私が収集した江戸時代の事例などに基づいて、
「久保田三十三」の展開はこんな感じかな? という私なりの青写真をここにまとめておきます。
- ([前史] 観音霊場を任意に結びつけて順礼する「ツアー」の結びつけ方がだんだん固定化されてきて
「西国三十三」のような形でまとまってくる)
- ([前史] 順礼の満足感を増すため? 「御詠歌」が作成される。
西国三十三の御詠歌は伝説ほど古くなく、
全部出揃ったのは16世紀前半頃と推定される。)
- 江戸期に「観音巡り」が全国でブーム、秋田でも「久保田三十三」成立。
御詠歌もたぶんこの時期全国に広がる。
- 何故か、いつの頃からか、「西国三十三の御詠歌を唱える」ことが
物故者の追悼行事の一環として盆などに全国的に行われる
(「観音巡り」とは別ルートで伝播? 観音巡りの場合、各地で独自の御詠歌を用意することが多いけど、
こちらの用途で使われる御詠歌は西国三十三の御詠歌と決まってるような気がする)
- 盆は7月中旬だが、それと半年離れた1月中旬にも盆と同じ行事を行う風習が全国的にある。
- 秋田には、盆と正月(小正月)に「観音めぐり」に限定されない、寺社参拝の風習があった。
- なかでも盆と正月の観音めぐりは「地獄の釜が開く」時ということもあり、
追悼追善および祖先供養の意味も込められて、夜通しで行われた。
- 盆と正月の観音巡りは追悼追善だから、ということで「西国三十三」のご詠歌が唱えられる。
やがて、それが定着。この定着がさらに「久保田三十三」を追悼追善行事化。
盆と正月の観音巡りで打つ札も、故人の戒名を記入するという独特の形式に。
(なお、[ここ]に
「本当は亡くなるまでに自分で33箇所の寺を回って朱印を押してもらい、亡くなった方の棺桶に入れてあげます。仏様と一緒に旅立つと言う意味みたいです。だから御詠歌をあげるのは一晩で33箇所回ったことになるので、やわらかく言えば「成仏してね。お寺もまわったし仏様も一緒ですよ」という意味でしょうか。」
「霊場寺院に参拝した際のみだけでなく、死者への追善供養として御詠歌を唱えるのは、死者に成り代わり各霊場に参拝する、いうなればバーチャル巡礼」とか書いてあるよ‥ これだと追悼と観音巡りが単純に結びつけられて
いるんだけど、んー。保留)
- 盆と正月の観音めぐりが追悼追善行事として定着してしまったため、逆に
「観音巡りは追悼行事」と考えられるようになり、盆と正月以外の観音巡りは
忌避されるようになり消滅
- やがて盆の観音めぐりも消滅、正月のみの行事となった。
(一度、完全に寺社参拝の風習そのものが絶滅した後で、誰かが正月のほうだけ
復活させた、という可能性を考えた方がスッキリする? ‥いや、追悼行事の一環として
定着したのなら、一周忌法要がなくならないのと同じく、観音巡りもなくならないはず)
- 現状のような、完全なる追悼行事の一部、一周忌法要と同様な、なかば義務的な行事
としての「観音めぐり」の完成
- 全国的に行われる一周忌法要などとは異なり、久保田ローカルな観音巡り行事は
ほぼ口伝でしか後世に伝えられず。その結果、
伝承の断絶等により規模を徐々に縮小させながら、現在に至る
新史料を見つけたり、考えが変わったりするとすぐ内容が変わる、まあ、私なりの
作業仮説的なものではありますが。どんなもんですかね。