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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


[前] 秋田風土記(1815)

[ふろく] 閻魔王の斎日?

『秋田風土記』(1815) の牛嶋村、矢橋(八橋)村の項などによれば、 札打ちの日付として年二回、 1月16日と7月16日が上がってます。これ、「閻魔王の斎日」というやつでしょうか。

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「閻魔様の斎日」の巡礼?

「ふだうち7月9日説」のソースとして紹介した「秋田紀麗」(1804頃)の 1月16日と7月16日の項を見てみると、それぞれについて 以下のように書かれています(「秋田紀麗」,『秋田叢書(5)』(1930), p.7, p.26.):

正月 / 十六日
此日と七月十六日は大斎日とて、地獄の釜もひらくと云ヒ、天徳寺にては御霊屋をひらき諸人に拝せしむ。此日百工も其技をやめてたのしむ。
此頃より日待とて、家々に宝引、双六して暁を待事あり。
むかしは此頃薮入りとて、諸家のはしたなど父母の家へ郷還りし、小集楽(をへら)、〓歌会(かびへ)の戯をなす。万葉に 〓歌会の長歌あり。常陸国志などにも記せし歌場(うたかき)の遺風、男女相歓のたのしみ也。五雑爼(ざっそ)には此日 寺観に遊ぶ事を記して、走百病(やぶいり)と云ふとなん。

七月 / 十六日
此日生霊を送る。備へし雑菜を茄牛(むま)に負せて流す。枳棋堂主人の言に、「霊棚や流せば浮るものばか り。」乞丐、非人巷陌に充ち、竃馬(こうろぎ)来りて勧進米を(ねだ)る。
 大斎日とて万固山御霊屋ひらき、いろいろの仏像宝器を出し賎しき者までも拝せしむ。神田白旗明 神に花角觝(はなすまひ)ありて、近村の若者等臂を攘ふ。

「地獄の釜もひらく」というところから、たぶんこの両日は「閻魔王の斎日」であると 意識されていたこと、また、その日に合わせて、寺社によっては(少なくとも天徳寺では) 特別なご開帳(?)をしていることがわかります。まあ、そんなこんなで 寺社に参詣する人が非常に多い日になっていたんでしょうね。

 なお、1821年頃に書かれたはずの「風俗問状答(秋田)」でも、 1/16 に関して同様の記述があります。

(正月)十六日 斎日の事
農工商ともに、業を休みて餅喰ひ酒のみなどす。老翁、老姥は寺々へ行く也。すべて奴婢をば、一日 のやぶいりせさするにて候。(「風俗問状答」『秋田叢書(6)』 p.12.)
「やぶいり。仕事は休みの日」「老翁、老姥は寺々へ行く也」 ‥‥ジジババ限定、というのがちょっと気になりますが(^_^;

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「閻魔様の斎日」は中国起源か

「閻魔様の斎日」として1/16、7/16という日付が割り当てられていますけど、これは いつ、どこからそういう設定が出てきたのか? ‥このへんにつきましては、 ちょっとよくわかりません。日本において閻魔様が存在感を示してきた おそらく初期の頃の 文献:「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」 (平安時代末期, 11世紀前半?) [URL] には「十斎日」についての言及はありますけど、 閻魔斎日についての言及は見当たりません。

 なお「地獄の釜の蓋」と類似の設定については、じつは中国にもあったみたいです。

中元盂蘭盆を俗に鬼節という。亡霊鬼魂のための年中行事である。幽冥の底に沈んでいた霊魂も、 この日ばかりは休暇を許されて、なつかしいわが家を訪れる。‥(略)‥妻が十五日に家で供養をしていると、 死んだはずの夫が早轎で帰ってくる。「今日は中元節で、冥府では暇をくれたから暫く帰れたのだが、 いつまでもこうしてもおれない」といって家族の者とも対面したあと、青い煙とともに姿を消した云々。 盆の一日だけ地獄の釜の蓋があくというのも、日本ばかりの俗説ではなかったようだ (澤田瑞穂(1991)『修訂 地獄変』平河出版社, p.120)
‥この後半で紹介されている亡者帰宅のエピソード、これは洪邁『夷堅志』(南宋,12c末)にあるそうです。 これは中元節、つまり7月15日の話になりますので、まあ、7/16とは一日ズレてるんですけど。 でも「亡くなったはずの夫が一日だけ帰ってくる」という話の内容を見ると、両者はとんど同じものですよね。

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地獄の釜の蓋が開く日

ただ「秋田紀麗(1804)」「風俗問状答(1821)」には、 これらの日と久保田三十三との関係については 何も書いてないんだよな‥。「秋田紀麗」の7/9の項で久保田三十三らしきものに ついての言及があるので、この作者が札打のことを知らなかったとか、全然興味が なかったとかの可能性は考えられませんよね。それなのに1/16,7/16の項では 札打の「ふ」の字もない。 そのへんをどう解釈すべきかは今のところよくわかっていません。

 ただ「地獄の釜が開く」→「祖霊が帰ってくる」→「先祖供養のため、 ご先祖の霊と一緒に観音様でも回るか」→「ほら、ご先祖のかわりにご先祖の札貼ったぜ!」という 展開であるなら、それはそれでアリかもしれないなー、とも思います。 ネット上に、以下のような記述も見つけました:

老和尚曰く「1月16日は昔の藪入り。 休日であり里帰りの日であるからこの日に行われるようになった。」とのこと (西来院(秋田市寺内) [URL]ブログ「大きな小住」の2010/1/15付記事 [URL])
この「老和尚」の言葉をどこまで信じてよいのか、いまいちよくわからないんですけど。しかし、 どうみても「くぼたふだらく」は先祖供養の儀式に間違いないでしょうし、 スタートは江戸時代なのも間違いないですし。そして「薮入り」は「地獄の釜」とセットのはずですので、 地獄の釜の蓋が開く日だから(、だからこそ「薮入り」の休日にもなっているし、その日に) 先祖供養で巡礼するようになったと考えるのは、まあ、当然といえば当然のように思えます。

 ‥‥でもなー。「地獄の釜」が開く日にご先祖が帰ってくるということは、つまり、ご先祖は 地獄にいるという設定になっているってことですよね。いいんですかね‥と思ったりするんですけど、 でもここでいう「地獄」って、中世の時期にイメージされていた、往生要集的な あの「地獄」とは 違うような気がしますよね。なんか、すげー軽い気がするんですよ。 単純に「こっちでない、あの世。死後の世界」的な意味で「地獄」という言葉を使ってて、 普段はそちらで生活してるご先祖様が、まあ お盆だしちょっと帰省するか的なノリで期限つきで 帰ってくる、そんな感じがするんですけど、どうなんでしょうか。「地獄」以外の六道、たとえば 餓鬼 [LINK]なんて眼中になさそうな感じですし‥。

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地獄って、つまり「あの世」のこと?

 そんな感じで「ここでいう地獄って、要するに『あの世』のことだ」と解釈すると。 じつはこれ、 [ 柳田國男師における「盆と正月」 ] [LINK] と繋がってくるんですよね。 柳田1946に曰:

もとは正月 も盆と同じように、家へ先祖の霊の戻って来る嬉しい再会の日であった。 (柳田國男(1946;repr 1990)「先祖の話」『柳田國男全集13(文庫)』ちくま文庫, p.43)
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柳田1946は、日本では先祖の霊は 村の近くにある山の上にいて、必要なときは随時 子孫たちのもとに霊がやってくる。と説明していて、「地獄の釜のフタ」なんてものは 相手にしてないんですけど。これについては、柳田1946が想定する「日本本来のありかた」に、 仏教的死後世界観(地獄と極楽)と、 死者を埋葬=死者は地下世界にいる、という考え方が混じり合ってできたものなんですかね。

 たしかに柳田1946 も「もとはご先祖様は山中におられた」と推測しながらも、以下:

死後 に我々はどこへ行くか。または霊魂は日頃はどこに留まっているか。それはとうてい知り究 められぬとしても、少なくとも前人はどう考えていたろうか。‥(略)‥ ともかくまるまる考えてみないという人を除けば、墓へ土の下へと いうのが、わが邦では最も新しい考え方で、それは主として盆の魂迎えに、墓所から精霊を 誘導して来る風習に支持せられている。もっともその以前にも地下をあの世とみる観念は書 物にも見えている。また生前の姿のままで、隠した場所をもって終の住家のごとく、想像す る者もあったではあろうが、 (柳田1946, p.144)
このように、20世紀になると ほとんどの人が霊魂は墓の下におられると考えている、と 指摘しています (ちなみに。平田篤胤翁は 「霊魂は墓上にて 霊威を現したる」と仰せです。墓の下ではなく、墓の上である、と)。 他の人をみても以下:
死霊が無害化されてはじめて、死者は折々に自宅に招くに足る親しき祖霊と化すのである。 遺骸や骨の安置された墓に永久に留まり縁者の訪れを待つのが、あるいは 招かれたときだけ位牌のある自宅に戻るのが、近世以降のあるべき霊の姿だった (佐藤弘夫『死者のゆくえ』 岩田書院, 2008. p.198)
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このように、やはり近世以降は「霊魂は墓にあり」が普通となったとの指摘もあります。 これらのことから考えると、 「地獄の釜の蓋が開く」とはつまり「墓石の封印が解かれる」という風に理解されていたのでは? と考えることも十分可能というか、私としてはそう考えたほうがかなりスッキリするんですけど。

 ‥んで、「あの世」を「地獄」なんて単語で呼んでしまったから、地獄といえば閻魔さま、 という連想が起こってしまったかなー、と。んで、もとは先祖祭の日だから先祖霊を祀る 宗教儀式をおこなっていただけだったものが、 「地獄の蓋が空いてるから、ここで善行積めば閻魔様にアピールできるから供養を」なんていう 感じのロジックが付いてしまったとか。そういう感じなんでしょうかね。 (このへん完全に単なる妄想)

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なぜ正月に?? (よくわからない)

柳田1946によれば「日本では正月と七月と年2回、先祖祭を行っていた。 正月と七月ではその内容に違いはなかったが、やがて時とともに それぞれを差別化した。 正月は めでたく、七月は先祖重視へ」といった感じです。 また七月は仏教系の伝統でも古くから「お盆」(本来の「お盆」は旧暦7月15日)でした。 なのでたぶん江戸時代も「ご先祖が帰ってくる」感が強いのは1/16じゃなくて7/16なので、 順礼も1月より7月(か、今だったら8月?)になるのが自然なようにも思うのです。 (関連: [ 「お盆」は8月に移動 ] )

 それなのに。この札打ちは いつの頃からか、毎年正月に行われています。何故??? 他ページでも紹介したとおり、『秋田紀麗』(1804頃) によれば「札打ち」は旧暦7月9日に 行われていたというのに! つまり、いつの頃からか、札打ちは7月から1月に 移ったことになる訳ですから!! (いや、可能性として正月七月とどちらもやっていたけど 七月札打ちの伝統は途中で消えてしまった‥という可能性もあるか)  夏はやっぱり農作業で忙しいから??

いや、あるいは。先祖供養の行事、お盆行事の一環として開始された訳ですけど、 全国的に一般的なお盆行事とはちょっと違う行事だったため、年月の経過とともに 「これ、お盆行事と違うくね?」ということを皆が思うようになってきて、 それゆえ7月の札打を避けるようになってきて、その結果、札打は専ら1月に 小正月の行事として行うようになった、というストーリーも可能ですかね?

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