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「お盆」は「盂蘭盆」で、それは仏教の伝統とともに日本に流入してきた。--- 何というか、 これは当然のごとくに思われていることではありますけど。本当か? という疑念を持つ人も いない訳ではないようです。
疑念の理由は何か? といえば。それは「お盆」が先祖供養を目的とした行事だからです。
どういうこと? 先祖供養でしょ?? それで仏教と違うって‥と思うかもしれませんけど。 こんなこと仰せの方もおられます:
‥だって、そうじゃないですか。輪廻説に従えば、死んだ人は 死後三年もたてば 別の生き物になって、別の暮らしを送ることに なる訳ですから。なので「ご先祖さま」としてのご先祖さまは、もう どこにもいない、ということになりますよね? さらに極楽往生を果たした人は、はるか彼方の極楽浄土にて満ち足りた暮らしを 送っており、最早この世のことなど どうでも良い感じになってるはずです。 じゃあ私たちは一体、何に向かって手を合わせているのか?? ‥ということに なりますし、実は ご先祖様に手を合わせている私たち自身、誰かの「ご先祖様」の 輪廻後の存在であるなら、 どこかで手を合わされてるのかもしれませんよ。でもそんな自覚ないですし、 手を合わせてもらったから何かラッキーなことがありそう、なんても考えないですよね。
そんな、盂蘭盆は仏教行事とは違うのでは? と疑う人の中での超大物といえば、 やはりあの方。柳田國男師でありましょう。 ただその柳田師をしても「本当に信じていいのか? あやしくない要素は本当にないのか?」といった レベルの疑念にとどまっているようなんですけど。 でもここで一応その説を紹介しておきたいと思います。
[Table of Contents]
柳田国男全集(13) [ 柳田国男 ] |
私が気になったのは、そこではなくて。 「お盆」という行事は 誰がどう考えても、純粋仏教的なものではない訳ですけど。
この非仏教的な要素について、柳田師は民俗的資料を縦横に駆使して 何を考えるのか? という点が気になったのです。
[Table of Contents]「盆」における非仏教的要素について。柳田1946はホガイ、ホカイに注目します。 ホカイとは「食物を神霊に供えること」、ひいてはお供えの容器となって外居(ほかい)とも 書いたりするみたいですけど。曰:
たしかに仏教的世界観からすると、毎年のように盆棚に祀られる「ご先祖様」とは何者ぞ?? 的な 疑問はどうしても解決できないですからね 「もとは祖霊祭だったのが、諸事情によって 仏教的仮面を被らされてしまった」とした方がスッキリするのは確かです。
[Table of Contents]先祖供養と輪廻思想の矛盾について、庶民でもやっぱり薄々気付いてたんだろうな。‥そう 感じさせられる用例を見つけたので紹介しておきます (杉浦さんの作品は、江戸明治期の文献のどこかに出典があるものが多いですので、 たぶん本作もそうなんだろうと勝手に思ったので紹介します)。
ここで紹介するのは 杉浦日向子『百物語』の「30:盆の話」というものです。 ある盆の日。亡母のための盆棚を用意していた娘が、自分の母親を見つけてしまった シーンです。なんと母親は鼠になっていたのです。驚いた娘はこう問いかけるのです:
輪廻思想を本気で考えるとやっぱ、自分の亡き母親はそこにその姿でいる訳ではない。 この場合、たまたま知ってしまった母親の現状は、ネズミだった。‥それに気付いてしまったら 当然、先祖供養なんてバカバカしくて やってられなくなる。でも日本人の多くは 先祖供養をやらないと気が済まないから、だから輪廻思想は知っていてもそれを深く追求する ことはせずに済ませてきた。そんな感じなんでしょうか。
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