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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


[前] 秋田紀麗(1804頃)

秋田風土記(1815)

これも菅江真澄と同時代の人になると思うのですが。 淀川盛品という人が1815(文化12)年にまとめた(はずの)『秋田風土記』という 書物に、久保田三十三番札所に関してこんな記述があるのを見つけましたので、 ここで紹介します。

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牛嶋村の札所

▽観音堂 伝応山権現合殿。別当修験竜宝院。春三月十七日観音祭礼。九月九日権現例祭、共に湯立 神楽有。久保田三十三所第七番札処。大和国岡寺の写し、正月十六日七月九日夜十日十六日札納参詣 群集す。常にも順礼参詣多し。又正五九十二月十六日夜参籠有。 ▽宝袋院 楢山萬福寺派の禅宗也。開山碧水和尚享保十六年七月二十二日寂す。境内稲荷社鎮守也。 九月十六日祭礼。 (「秋田風土記」,『新秋田叢書(15)』(1972), p.174.)
‥伝応山権現と合祀された観音堂が牛島にあって、そこが久保田三十三処の七番札所だと 書かれています。当時すでに宝袋院(現07番札所)は存在したようですが、当時まだ 札所ではなかったようです。

 そして気になるのは巡礼の日付。 「久保田三十三所第七番札処。大和国岡寺の写し、正月十六日七月九日夜十日十六日札納参詣 群集す。常にも順礼参詣多し。又正五九十二月十六日夜参籠有」[*1]とあります。 つまり「常に順礼参詣は多いけど、 1月16日と、7月9日夜、10日、16日はとくに札納参詣が群集、 また1月5月9月12月16日の夜に参籠あり」ということで。とにかく1月16日は、 多くの人が順礼をしたがる、そういう特別な日の ひとつである ことは明らかなようですけど、現在のように「1月16日に決まってる」感じはしませんよね。

 また 『秋田紀麗』(1804頃)で札打ちの日とされていた 7月9日 [URL] についてもやはり「札納参詣群集す」と書かれていて、 その日が何か決まった行事の日‥かどうかは不明ながら、 でもその日に人が大勢繰り出していたのは事実のようです。

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矢橋村(八橋)の札所

▽天満宮 神主土崎縫殿助、例祭三月廿五日神楽あり。此祭日前より此日に至り、童部薄板に大文字 を書、額として奉る。又紙にも書て奉る。凡神前に満、社内の梅枝にも打付るなり。此日参詣尤多 し。春廿五日を初天神と称す。参詣群集す。八月廿五日を秋祭として群参し又頓阿が作る処の人丸の 神像あり。此日合セ祭るなり。社内保食堂ハ本尊観世音、俗菩薩堂といふ。久保田三十三所第三十一 番札処、祭礼六月十八日湯立神楽あり。又正月十六日、七月十六日参詣群集す。 ▽庚申堂 ▽ 神明堂境内観世音堂 久保田三十三所第三拾番札所。凾岡神明と称す。神主。例祭六月十六日宵灯多 し。諸願の者難一番を納む。故に社内難為郡。 ▽東照宮別当寿量院 天台宗東叡山中元光正院院代 移守之。例祭四月十七日 ▽帰命寺 天台宗小寺也。久保田三十三所第三十三番の観音安置。 ▽普 門寺 久保田三十三所順礼第三十二番の札所、千手観音座像並三十三観音安置 (「秋田風土記」,『新秋田叢書(15)』(1972), p.13.)
まず30番札所が「神明堂(函岡神明)境内観世音堂」で、31番札所が「天満宮(天神)の社内 保食堂(菩薩堂)」であり1/16と7/16には参詣の人が大勢来る、と書かれています。 そして32番札所が普門寺、33番札所が帰命寺とも書かれています。そして 庚申堂(現31,32番札所 不動院)が当時から存在していたこともわかります。

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日付的なこと

すでに書いたことですけど。「天満宮」のところに 「久保田三十三所第三十一番札処、‥‥又正月十六日、七月十六日参詣群集す」 と書かれています。このことから、当時からすでに1月16日、そしてその半年後の7月16日も 三十三観音順礼にとっての何か特別な日であったように思えるんですけど。

 でもここで不思議なのは、 『秋田紀麗』(1804頃)で札打ちの日とされていた 7月9日 [URL]との関係についてです。7月9日のことはここにはまったく書かれていません。 これはどういうことか? というのは現状ではちょっとわかりません。

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位置関係など

 江戸時代の八橋近辺の地図を、3つ並べてみました。 左から順に 1742(寛保2)年 御城下絵図(県C-165)[APL] 1759(宝暦9)年 御城下絵図(県C-599)[APL] 1828(文政11)年 羽州久保田大絵図 [APL] です。

 まず30番札所。これは「神明堂(函岡神明)境内観世音堂」と書かれていました。 これに該当するのはどこか? となるとヒントは「神明」という言葉です。 Wikipediaの「神明神社」の項に:

神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。 (Wikipedia::神明神社)
こうあるように、神明といえば「お伊勢さま」、つまり地図中の「伊勢堂」がそれだ、という ことになります。ただ境内に描かれた建物のどれが観音堂か、というのは残念ながら定かでは ありませんが‥。ちなみにこの伊勢堂(函岡神明)、 所在地は現在の八橋球場のような気がするんですけど‥。 でも、伊勢堂の後ろに描かれた山々、その中でいちばん高い山が いま八橋公園に唯一残っているあの山だと すると、そことの距離がちょっと微妙かな? んー。

 そして31番札所。こちらは「天満宮(天神)の社内保食堂(菩薩堂)」とあります。 この菩薩堂、1742年の地図では「山王(現 日吉八幡神社)」のすぐ南隣にありますけど、 1759年の地図では「寿量院古境内念仏堂」(=帰命寺。この地図は幕府国目付に提出するものなので「寿量院」を強調したんでしょうね) と羽州街道をはさんだ 向かい側に天神堂などとセットで移転しています。

 この移転、たぶん「寿量院」という寺院の建築のため 追い出されたんですね‥。 このあたりの事情について。山王さんの‥

その南隣り(気象台附近)には箱岡天満宮があったが、明和二年(一七六五)この地に寿量院を造営した。三代義処が将軍家の家牌を天徳寺きみょうに祀ったが、のち八橋の帰命寺に移し、このとき壮大な寺院を造営したものである。寺禄二百石の大寺である。寿量院は、幕府の滅亡とともに急速に荒廃した。 (秋田市ものがたり (20)八橋地区)
あれ? 1765年寿量院造営? 1759年の地図だともう寿量院、ありますけど?! あれれ??? ‥というのは 置いておいて。寿量院というのは、その境内に「東照宮」があったことからも明白なんですけど、 徳川家に対する佐竹家の忠誠心をアピールするための施設 (それによって、幕府に目をつけられないようにした)ですから、江戸時代においては かなり気合を入れて整備されたお寺ということですよね。徳川将軍家へのアピールが主目的ということで、 明治時代になると あっという間に潰されてしまいましたけど‥。 ちなみにこの寿量院、1828年の地図を見ると 所在地がビミョーにズレています。 山王宮のナナメ向かいになってますね。 これ、 Wikipedia の「日吉八幡神社」の項に 「寛文2年(1662年)現在地に移ったが大火により焼失し、安永7年(1778年)に再建した」と ありますけど、ひょっとして、そのとき(1770年頃?)の大火で寿量院の建物も一緒に焼かれてしまい、 一刻も早く再建するため 旧地を捨てて ちょっと東側に建て直したとか、そんな感じなんでしょうか。 ‥‥閑話休題。札所についての話に戻すと、1828年の地図の 天神堂や庚申堂(不動院)の場所もちょっと気になります。 それ以前の地図、そして現在の場所とはそれぞれ微妙に違っていたり同じだったりしますし。 それと、1759年版では東照宮が描かれていたあたり? そのへんに 「天神堂」とか「太子堂」があるようで、つまり天神堂が2つに分かれた?! 菩薩堂はどこに行った?! ‥など、気になる点が満載です。 何かあったんでしょうか。やっぱり火事でしょうか‥

八橋の丘については [ [メモ] 八橋の丘@秋田市八橋 ] にまとめました

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かんたんな総括

 とりあえず「秋田風土記」調査のまとめをしておくと、こんな感じです。 日付についてだけですけど。 「1月16日は札所順礼にとって特別な日のひとつ」「7月16日も順礼にとっての特別な日で あったし、これらの日以外も札納参詣は行なわれていた」「7月9日夜も特別な日のはずだけど、 16日ほどじゃないかも」「1/16,7/16は巡礼にとって特別な日だけど『夜』とは書かれてない」 「順礼の目的については、 『秋田風土記』の中にそれにつながる記述を見つけることはできなかった」 ‥それが1815年。

*註1
1883(明治16)年〜1903(明治36)年に書かれた「羽陰温故誌」の 旧七番の牛嶋熊野神社に関する記述のところに、 以下のような記述があります。
按スルニ、当社ハ観音菩薩熊野権現合殿ナリ。別当修 験竜宝院三月十七日観音ヲ祭リ、九月九日権現ヲ祭ル。 共ニ湯立神楽アリ。観音ハ久保田順礼三十三番札所ノ第 七番ニテ、正月十六日、九月九日、同十六日、札納トテ 男女老若打混シ参詣群集ス。 (「羽陰温故誌」,『第三期 新秋田叢書(4)』,p.235)
1月16日、9月9日、9月16日に納札のため参詣する人が集まってくる、とあります。 く、九月?! 七月の間違いじゃないの?? えー?! (^o^;; 「秋田風土記」の記述と合わせてみると 9/16に混雑することについては「風土記」に 「正五九十二月十六日夜参籠有」とあるので まだアリかも と思うこともできます (ただ「参籠」ですからねー。参拝とか巡礼と何か違うとは思うんですけど。 でも 中世期の参籠[LINK]と、江戸期(近世)の参籠の関係は 現状では不明なので何とも言えません)。 でも9/9というのは何だろう‥というのと、 7月の巡礼はどこに行ってしまったのか、というあたりは どうなんでしょうね。
 ちなみに「羽陰温故誌」についてですけど秋田叢書の解題には「県内市町村の故事を博引傍証、 ことに社寺や伝説、民俗の資料性が高い。‥(略)‥第二冊に参考書として九十二書をあげており、 ‥(略)‥ために筆写のさいの誤りもすくなくない。大半は古記録の写しになるが、 筆写が実地に歩いた項は、いきいきとした考証がうかがえる。」(解題 pp.1-2)とある ことから、「明治期に書かれたが、内容は故事。つまり江戸期かそれ以前。 非常に多くの書物からの引用があるため、どうしても筆写誤りが目につく」という感じですかね。 ‥間違い?
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