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[メモ] 八橋の丘@秋田市八橋

題 [メモ] 八橋の丘@秋田市八橋
日付 2023.11



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はじめに

2023(令和5)年5月、秋田県立体育館の建て替え候補地が八橋運動公園内にほぼ 決まったというニュース。そしてその候補地ですけど、 なんと現存の「八橋の丘」に食い込む感じになってるではないですか!

個人的に「八橋の丘」といえば、 小学生の頃によく遊びに行って(今はなき)デカいすべり台滑ったり(1998/9 はまだあったのか)、 冬はスノーボートで山から滑り降りたりしていたり、 母校(言ってしまうと山王中)の校歌の歌詞に入っていたりと、 それなりに思い出のある場所でしたので、 もしそれがなくなるとするとちょっと‥いや、かなり残念な気持になります。

ということで。「八橋の丘」周辺情報についてちょっとメモっておきます。

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江戸時代

江戸時代より前はよくわからなくて、江戸時代からになります。

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日吉八幡神社

たぶん最初は日吉八幡神社。伝承によれば平安時代からあったものが佐竹氏により 1615(元和元)年、 八柳八橋の狐森に移されます。しかしどうやら1642(寛永19)年春の雄物川氾濫に被災し、 1662(寛文2)年に現在地、つまり現在の八橋公園すぐ横の場所に遷座した、と [秋田県神社庁]

(1770(明和7)年に狐森で火災、そののち現在地に移転した。‥とする話も ネット上で見かけました[広報あきた]が、 1742(寛保2)年の地図(後述)を見ると現在地に「山王」(=日吉(八幡)神社) と書かれてるので 1770年移転説は間違いではないかと思います)

なお。八橋地区の歴史を語るうえでこの日吉八幡神社の遷座は無視できません。 その理由は以下:

 江戸時代初期に旧羽州街道が整備され、今の日吉 八幡神社が遷座した頃から住人が増えました。やがて、 街道沿いに茶店が立ち並び、芝居興行が行われるな ど、城下の町人が集う行楽地として賑わいました。 [ 八橋地区の歴史と地名の由来 || あきたのまち再発見 ぐるっと文化財マップ(秋田市八橋・川尻地区編) ]
つまり現在はほとんどその名残さえ失っていますが、江戸時代の八橋は 久保田御城下随一の行楽地・繁華街であり、その理由として 日吉八幡神社などの宗教施設に御城下から多くの人たちが参詣して、 帰る前にちょっと一杯やってくか‥そんな需要があったからと言えそうです。 (まあ、参詣者の多くは主目的が「一杯やるか」で、その口実として 参詣があったのではと思いますが‥)

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寿量院

そして江戸時代の八橋で重要な建物としてもう一つ、寿量院を紹介しておきます。 もとは1682(天和2)年に天徳寺内に作られた徳川将軍家を祀る御霊屋だったのですが、 これが元禄期(1680〜1709)に八橋の帰命寺(現存)に移され、これがさらに 1746(延享3)年に寿量院として独立した寺院になります[二〇世紀ひみつ基地]

そして。この寿量院は徳川将軍家を祀る御霊屋から始まったと紹介しましたが、 それゆえ寿量院は江戸時代は 徳川将軍家への忠誠を猛烈にアピールしたい 佐竹家による強烈なバックアップを受けて繁栄したものの、 江戸時代徳川将軍時代が終わって明治時代になり佐竹家も大名家でなくなってしまうと すぐに姿を消してしまいます。 なんかちょっと勿体ない気もしますね。

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古地図

右の地図は1759(宝暦9)年のもの。 [ 当サイトの別ページで使った画像 ] の使い回しで、元は 秋田県公文書館蔵のものです。 ([寿量院ができる前の1742年の地図はこちら])

この地図を見ると、山王(日吉八幡神社)、寿量院・東照宮、伊勢堂(神明堂)が北から順に並んでいる ことがわかります。寿量院は現在(平成・令和)のテニスコートのへん、伊勢堂(神明堂)は 現在の県スポーツ科学センターや八橋球場のへんで、ちょっとした丘の連なりになってますね。 この丘の連なり、ここでは「伊勢山」ととりあえず呼びます。 (そしてここにあったお堂の一部は [久保田三十三所]の一部に列挙されていて、 それなりに参詣者は多かったと思われます。) 図の左端のほうにある毘沙門堂はどのへんなんですかね。たぶん山王大通り近くの駐車場かな? と。 んで、そのへんでこの伊勢山は終わっています。小さい山、というか丘です。

そして残念ながら、現存する八橋のあの丘は、この地図には書かれていません! 宗教的観光的な特記事項がとくになかったので省略されてしまったんでしょうか。残念です。

右の地図は1828(文政11)年のもの。 これも [ 当サイトの別ページで使った画像 ] の使い回しで、元は 秋田県立図書館蔵のものです。

寿量院の場所が東に移動している(火事で焼けたのか?)以外の点は 基本的に1759年と同じですね。そして伊勢山はしっかり描かれているものの、 現存する八橋のあの丘は、こちらでも無視されています。んー、どうしたことでしょう??

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秋田街道絵巻

これ以外に見つけた資料として『秋田街道絵巻』があります。 秋田街道絵巻は1800年頃(?)の作品らしく、千秋美術館が所蔵しています。 未見ですが「土崎みなと歴史伝承館」でタッチパネル展示しているみたいです。 そのうち行ってみたいと思ってますが、まだ入ったことがない‥

『秋田街道絵巻』で関連してそうなのは以下:

八橋の丘については、このうちの後者かな?

右図に一部引用しましたが、右(北)から順に寿量院、神明堂、御内宮、松寿院(松尾堂?)、 (右図では切れてますけど) 毘沙門堂と並んでいて、これは上記1828年の地図とほぼ同じ並びになってますね。 (ちなみにこの毘沙門堂は 1886(明治19)年の俵屋火事で焼けたのち秋葉神社を合祀、珍宝神社となったのち1887(明治20)に保戸野に遷座、1892(明治25)に勝平神社に改称 [ 勝平神社の石造狛犬 調査報告書; pp.3-4. ] 。2023(令和5)年の元旦に初詣で勝平神社にお参りしたら風船もらいました🎈)

そして面影橋の下を流れる草生津川が、八橋のへんで左に曲がっていて 3つある八橋の丘のほうに流れているように描かれています。草生津川が左に曲がっている?! 現在、私が知るかぎりでは草生津川は面影橋より下流は右にゆるやかに曲がっているはずですので、 これはかなりな違和感を受けるのですが、なぜこのように描かれているのかは 現在のところわかりません。江戸時代の流れはこうだったんですかね?

そして八橋の丘。3つ描かれていますが、 寿量院の裏手の丘が今のテニスコートのへんの盛り上がり、 神明堂の裏手の丘が伊勢山、 その奥にある丘が現存するあの八橋の丘なのかな??

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明治から昭和初期(戦前)

1868(明治元)年、明治維新。

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明治期

「秋田廳下市街図(1880, 明治13)」(『思い出のアルバム 秋田市 明治・大正篇』(1984),無明舎出版), p.12)で描かれた八橋地区が右図です。 現在の八橋運動公園のところに山が2つ描かれていますね。そして、どちらもデカい! ‥んー。この2つの山はどう理解すれば良いのかなー。現在の地図と照らし合わせてみると、 右側が八橋球場のへんで、まあそれはいいんですけど。 左側は現存の帰命寺や面影橋との位置関係でみると秋田保健所・サンライフのあたりに なっていて、現存するあの八橋の丘のあたりは二つの山の谷間のあたりになりません? ん?!

真相は定かではありませんが、たぶん「ここに小山が2つあった」ことだけが留意事項で、 その細かな位置関係などは考慮されなかった感じなのかもしれませんね‥

1901(明治34)年の [ 秋田市詳密地図 附商工人名記(1901, 明治34) (東山文庫) ] を見ると、「箱岡神明社」が山頂にある小山が一つだけ描かれています。神明社があるという ことからこれは伊勢山でしょう。思った以上にデカく描かれていますが、 ちょっとこれはデカすぎじゃないですかね。山裾が帰命寺・普門寺のあたりまで来てしまって いますが、これだと現存のあの八橋の丘が伊勢山の山裾になってしまいますからね。 しかし、そうであったとしても 現状の八橋球場は伊勢山を相当に削って作ったのは確かぽいです。 そして現存の八橋のあの丘は省略されていますね。存在感なさすぎ‥。

ところで伊勢山の北隣、江戸時代は寿量院があったはずの場所に「農学校」があります。 これは 秋田県立秋田農学校(現・大曲農高。1904(明治37)年に大曲に移転)ですね。そうか、ということはここが秋田第一勧業場跡なのか。明治28年簡易農学校として独立し、現秋田地方気象台付近にあった秋田県第1勧業場に校舎を移した。‥(略)‥入学生も多くなり、また実習地の確保も秋田市ではむずかしく、明治37年大曲に移転した(『思い出のアルバム 秋田市 明治・大正篇』(1984),無明舎出版,p.66)とありました。「現秋田地方気象台」は1984年頃の話で、2023年現在は秋田県スポーツ科学センターです。

「秋田市近郊地図(1916, 大正5)」(『思い出のアルバム 秋田市 明治・大正篇』(1984), p.88)にも八橋地区が描かれていました。 ちょっとボヤけていて見にくいんですが、 現存のあの八橋の丘が(ちょっと見えにくいですけど)帰命寺の南方を山裾とし、 普門寺の南方のあたりが山頂に描かれています。 これは八橋の丘の現状とかなり近く描かれており、かなり正確なのではないかと思います。 そしてもう一つの丘・伊勢山も描かれていますが、案外デカいな。 現在の八橋球場がほぼすっぽり入るくらいの大きさですね。

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昭和初期(戦前・戦中)

1941(昭和16)年、宗教(観光)施設が多かった八橋界隈に大きな動きがあります。

それは現在も存在する八橋陸上競技場および八橋球場の開場であります。 また、それ「とともに公園が開設された」 [ Wikipedia ] 、と あります。

まず公園についてですが、日吉八幡神社境内が「八橋公園」として整備されたようです。 じつは私はこれまで 八橋公園=八橋運動公園 だと信じて疑ったことなかったんですけど、 とある時期まで(終戦まで?)は 日吉八幡神社=八橋公園(≠八橋運動公園)だったようですね。 [ 戦前の日吉八幡神社 ] というページを見ると、 日吉八幡神社の境内が「八橋公園」として絵葉書になっているのを見ることができます。 現在はもっと鬱蒼としたイメージがありますが、公園とされていた時期は 鬱蒼とはほど遠い感じで、なんかとっても公園ぽいです。

そして公園開設の時期についてです。 [ Wikipedia ] を見ると 八橋の綜合運動場、野球場とともに開設された、とあるので昭和になってから 公園化か? と思いそうになりますが、実はそれより前、 大正期からすでに公園化はされていたようです。 大正期の写真を見るとすでに公園ぽく整備されてるようにも見えますし、 1916(大正5)年の地図にもハッキリと「八橋公園」と書いてますから‥。 ということで 「大正元年から数年をかけて造成された」 [ 八橋公園のクマは十七連隊の朝鮮みやげ || 二〇世紀ひみつ基地 ] のが正確と思われます。つまり先に日吉八幡神社が八橋公園として整備されたのち、 その外苑(?)に綜合運動場と野球場が建設されたんですね。

(この時期の日吉八幡神社といえば。 大正時代にはクマが飼育されていたこともあったようです。→ [ 八橋公園のクマは十七連隊の朝鮮みやげ || 二〇世紀ひみつ基地 ]。)

ここからしばらくは地図などは軍事的な理由もあって作成されない、もしくは 作成されても機密情報扱いとなってしまったはずです。 なので戦後になるまで関連する情報はなさげです。

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綜合運動場・野球場の建設

すでに紹介したとおり、1941(昭和16)年、 八橋公園外苑(?)に綜合運動場と野球場が建設されました。 それによって八橋地区の地形がどの程度変化したのか、八橋の山々にどの程度の 影響があったのかが知りたかったんですけど。 そんな中、[ 今昔マップ on the web ]というサイトで1912(明治45〜大正元)年の国土地理院2.5万地形図を見つけることができました。

そこで「うおー」と思って作成してみたのが右図です。 これは「今昔マップ on the web」の八橋公園周辺地図を透過加工し、 現代のGoogleマップの当該箇所と重ねてみたものです。羽州街道と草生津川を頼りに、だいたいこんな感じかな? と。

んー。野球場建設のため伊勢山は西側が半分ほど削られたみたいですね。地図で鳥居が 描かれた箇所、そこにお堂があったのかは定かではありませんが、そこがギリギリ削られたか 削られていないかという感じでしょうか。そして現存するあの八橋の丘。へー、 山頂が3つあったんですね。そして最も北にあった低めの山頂(現在のメインスタンドの一部に なっている場所)はキレイに削られて 綜合運動場が建設されたのがわかります。そして真ん中の山頂は現存、 南側の山頂がたぶんいちばん高かったものの県立体育館1968建設の際にかなり 削られて一部だけ残っている(ああ、あそこかと思いました)感じなんですね。

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昭和中期後期

1945(昭和20)年8月、終戦。

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綜合運動場・野球場登場!

1948(昭和23)年、 米軍によって撮影された航空写真[国土地理院]から八橋公園周辺を切り抜いてみたのが 右図です。八橋野球場建設のときにかなり削られてしまったものの、伊勢山、 まだありますね! 令和初期でいうとスポーツ科学センター裏の駐車場までが伊勢山、相撲場・テニスコートが別の何かの施設、というのがわかります。 また八橋球場と伊勢山がなんか接近しすぎていて、 八橋球場の一塁側スタンドがすごく薄い感じがします。 かなりギリギリに削ったんですね。

他方現存するあの八橋の丘についてですが、 綜合運動場を作るために丘の北側がまるっと削られたのは上述のとおり。 また丘の南端が現在の山王大通りの予定地とぶつかっていて、 この後削られていることがわかります。 現存するあの八橋の丘も、伊勢山ほどではないにせよ、 山王地区の都市化・運動公園化とともに削られていってますね‥

この航空写真の1948(昭和23)年と近い時代に作成された地図に [ 秋田市街全図 (1951(昭和26)年) ] があります。この地図における八橋公園周辺が右図です。 これを見ると野球場の東隣に「神明山」(=伊勢山)、 それと綜合運動場の東に小山があり、 これは先の航空写真と一致します。 この地図を見た感じだと伊勢山はまだしっかり丘というか小山ぽさは残していたんですかね? また伊勢山の北隣の施設ですが、秋田測候所になってますね。

ところでこの地図で気になるのが綜合運動場と現存するあの八橋の丘の位置関係です。 八橋の丘、なんか「あるべき場所」よりも北西にズレてないですか? これはちょっと気になるんですけど、 ちょっとアバウトに描いちゃったのかな? ととりあえず考えておきます。

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山王中学校、登場

そして 1953(昭和28)年、 秋田市立高陽中学校と秋田市立成和中学校[場所]を統合して 秋田市立山王中学校が設立されます。校舎は高陽中学校のものをそのまま使用です。 成和中学区の人たちはちょっとしんどい合併ですね‥。というのはさておき、 山王中学校の校歌は 1956(昭和31)年に制定されたようです。つまりこのとき、あの歌詞:

 雄物の水に 八橋の丘に かがやく緑あるところ (作詞 山田千之)
これが誕生したということです。

この時期の八橋の丘と山王中学校はどんな感じだったのか? をちょっと紹介しておきます。 [ 精密 秋田市街地図(1954(昭和29)) ] (新日本古地図学会) というサイトで 紹介されている画像の9番目、最後のやつを見ると1954年の山王地区を見ることができます。 (右図は「精密 秋田市街地図」(1962(S37)版。1962年は山王大通りが現・県立図書館の交差点のところまで開通しているはずですけど、その前なので内容的には 1961(S36)段階な感じですかね))

さきに紹介した1951(昭和26)年の地図と見比べると、3年の間でかなりの変化が生じている ことがわかります。高陽中が山王中に変わっただけでなく、県庁が現在地に出現している! (といいつつ 県庁が当時の川尻町、いまの山王に移転したのは 1959(昭和34)年なので この時期はまだ建設中、もしくは建設予定中のはず) 八橋運動公園のあたりまで山王大通りが出現している!! また現在の八橋健康広場というの? そのへんにテニスコートもできていますね。

それとちょっと気になるのが伊勢山。独立した丘・山というよりもなんか 八橋球場の一塁側スタンドの土台みたいに描かれているようにも見えてなんか微妙ですね。 でもまあ山の西側が半分ほど削られた訳ですから、 正確に描こうとするとこんな形になってしまうんでしょうね。 他方 現存するあの八橋の丘については、ここで紹介されてる他の画像を見る限り、 変化はなさそうです。

ということで山王中学校校歌ができた頃の状況としては、どうやら 山王中と現存するあの八橋の丘の間には基本的に田んぼと、建設中の秋田県庁しかなかった。 つまり山王中の校舎の窓から現存するあの八橋の丘はハッキリと、よく見えたんだろうと思います。 また山王中の校舎から雄物川そのものを見るのは厳しかったとは思いますが、 旧雄物川である秋田運河の周辺、臨海交差点のあたりも中学校の校舎からは見えたと 思いますので、そうすると校歌の冒頭:

 雄物の水に 八橋の丘に かがやく緑あるところ (作詞 山田千之)
これは当時の生徒たちにとってはリアルな情景だったと思われます。 今となってはピンとこないですけどね‥

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秋田国体1961

1950年代になると八橋公園のみならず山王地区が大きく変化していくのですが、 これは山王を新しい秋田市の中心にしようとする動きと、あと 1961(昭和36)年に開催される秋田国体が八橋の綜合運動場をメイン会場にして 行われることになったこと、この2つが大きく影響したことは間違いないでしょう。 その結果‥

1962(昭和37)年の航空写真[国土地理院]から 八橋近辺を抜き出したのが右図です。

つ、ついにこの時が‥。 伊勢山がついに完全消滅してますねッッ! なんか気持ちよさそうな芝生の、 噴水があってもおかしくない(噴水があったかどうかは不明) 公園になってます。国体開催を目前にして 1961(昭和36)年8月に八橋球場を全面改修したと書いてますから、 たぶんそのときに伊勢山が跡形もなく崩されてしまったんですね。sigh..

そしてラグビー場、テニスコートなどが現在の位置にできていて、 国体を前にしていよいよ「八橋運動公園」ができあがったという感じです。 県立体育館はまだないですけど、県庁と山王中に挟まれる位置に 山王体育館(のちの市立体育館)もありますね。 [ さらに続く独言 はこちら ]

あの八橋の丘も本体は生き残っているものの、南側は山王大通りによって、 北側は市営プールによって、それぞれ削られてますね。 市営プールができたのは1956(昭和31)年7月(〜2002(平成14)終了) [あきたノスタルジー]。市営プール、中学一年の夏はなんか毎日のように通ってました。 使用料は20円でしたけど、10回分の回数券が150円なのでそれ使ってましたね。懐かしい‥ のはさておき。

1961(昭和36)年に伊勢山が消滅したことにより、 以後、八橋で丘といえば現存するあの八橋の丘が唯一となってしまいました。 つまり、山王中学校に校歌ができたのは1956(昭和31)年なので、 山王中の校歌で歌われる「八橋の丘」が2つだった期間は 1956(昭和31)年〜1961(昭和36)年の5年間ということになります。

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秋田国体1961以降

国体の後、山王・八橋・川尻地区は開発され都市化していき、 田んぼがどんどんなくなっていきます。 1964(昭和39)年に市役所が山王一丁目に竣工、 1968(昭和43)年に秋田県立体育館が竣工、 1979(昭和54)年に秋田県立スポーツ会館(秋田県スポーツ科学センター)開設、など。

このページ的に意味があるのは 1968(昭和43)年の秋田県立体育館建設ですね。この際に 現存のあの八橋の丘の南側がかなり削られたのは間違いないですから‥。

あとは伊勢山跡地にスポーツ会館が建設されたことですけど。‥でも伊勢山はすでに 1961(昭和36)年頃に 崩されて噴水公園ぽくされちゃってましたから、まあ、その跡地に何が建設されても、 もう、どうでもいい感じではあります。

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おわりに

2023年に計画された新・秋田県立体育館の建設計画では、 あの八橋の丘の北側を削る予定らしいです。八橋運動公園に新体育館を作る案は 賛成ですし、しかし八橋運動公園内では建設用地がそこしか取れないというのであれば 丘の一部切り崩しも致し方ないのかなー、とは思います。でも、せめて新体育館建設後は 現存の県立体育館1968の跡地はそれなりに埋めて「丘」化してほしいものです。‥といった あたりが私的な妥協点ですかね。それとあの滑り台の復活‥はもうどうでもいいか? 復活したとしても、さすがにもう私自身が滑ることはないでしょうし。

ところでこのページ、読み返してみると現存するあの八橋の丘についてよりも 現存しない伊勢山についての言及がずっと多いですね。でも現存する八橋のあの丘についての 情報が案外少ないので、それは仕方ない‥


関連(?)情報

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