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[チラシの裏]

[地名メモ] 宮城県仙台市青葉区 八木山橋

題 [地名メモ] 宮城県仙台市青葉区 八木山橋
日付 2014.02



八木山橋。 仙台市の青葉山(青葉区)と八木山(太白区)という二つの山の山頂付近を結ぶ、 「自殺の名所」として仙台市内ではきわめて有名な橋です。

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自殺してんの?

 ネット見ると、こんな‥

八木山橋の近くには青葉城跡という宮城県屈指の観光スポットがあり、観光地のイメージダウンを防ぐために八木山橋で起こった自殺事件に関しては報道規制がかかっているらしい。そのため、自殺者の数やその全貌は明らかにはされていないようだ。 [八木山橋]
正直とても信じられないですけど、こんな感じの噂もあるみたいです。

でも実際のところ、自殺とか自殺未遂とかいう話、ない訳でもないみたいなのは確かです。

「今、八木山橋通って来たら柵の外に出て、飛び降りの20歳くらいの男がいて、大騒ぎになってた。。」 (【事件】仙台の心霊スポット八木山橋で飛び降り自殺 封鎖される [NAVERまとめ])
こんな感じの騒動が2012/6に起こったみたいです。 (これ以降も、検索してみると 2014/122015/22016/1 も詳細は不明ながら自殺、もしくは自殺未遂があったみたいです。‥‥ん?! 案外多いか?)

 上の騒動でもいろんな人がコメントしていますが、この八木山橋というのは、 八木山、また八木山より南のほうに住んでいる人たちにとっては 交通の要衝といえる場所になっています。 つまり、八木山橋を越えることによって仙台市内中心部にすぐ行ける、 そんな感じの近道・バイパスとなっていて、それゆえ 朝夕などは通勤通学ラッシュで渋滞が起きている場所です。 そして昨今のTwitterなどの隆盛も考えると、もしここで飛び降り自殺があって、 その現場検証を警察の人たちがしていたなら、かなりの高確率で誰か、 とくに近場にある東北大学の学生(とくに人数が多い工学部)の誰かがそれを目撃して、 その様子をTwitterなどで情報発信する可能性が非常に高いと考えられます。 でもそんな感じの話はTwitterなどでもそれほど出ている訳でもなさそうですよね。

 なので。おそらく現在は「報道規制」も何もなくて、ただ単純にここで自殺する人は 滅多にいなくなった。しかし たまに(年に一人くらい?)「あの自殺の名所」で自殺したいという人が 訪れることもある、そんな感じなんじゃないでしょうか。

 なお、竜ノ口渓谷にかかる八木山橋は、かなり高い位置にあります。 そんなとこから落ちたらきっと、地面に落下したときの衝撃で死体はたいへんなことに なってるんじゃないかと思います。なので‥

橋の下の竜の口渓谷は化石のメッカで、小学生がよく化石採取に行く所です。 私も化石を採りに行ったのですが、橋の真下で、人形に窪んだ部分が多数あるのを見ました。 その後も何度か、飛び降りた人を発見し通報していますが、高いフェンスがあるにも関わらず、いまだに飛び降りる人はいるようです。 [地域別の七不思議 北海道・東北 // d.宮城]
こういう話を見ると、「嘘だろ〜」と思ったりしてしまいます。飛び降り死体なんて、 一回見ただけで生涯忘れないほどの衝撃、トラウマとして心に残りそうなものだと思うんですけどね。 私だったら、そんなの一回見てしまったら、二度と竜ノ口渓谷には行かないと思うんですけど。 そのへん、なんか軽すぎないですかね?? (ところで。私も、澱橋からの飛び降りは目撃してしまったことがありますが‥。 いや、たまたま通りかかったら女学生たちが数人、橋の下を覗き込んでるから何だろうと 思って私も覗き込んでみたら、そこに‥(たしか死因は「溺死」)。 私の場合、最寄りが澱橋でしたから、その後も澱橋使ってましたけど。)

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昔は違った、らしい

でも八木山橋で自殺なんて、滅多にないのでは? ‥というのはたぶん最近の話であって、 昔は「自殺の名所」というのは本当だったんだろうと思います。

 右の写真、右から左に向けて「名勝八木橋」とあります。たぶん「八木山橋」の 誤植だろうと思うんですけど。「名勝」と書かれてますよね。これ、 1938(昭和13)年発行の「最新版 地番入 仙台市街全図」(復刻版・塔文社)の裏面にある 「仙台及松島名勝写真」、写真が20枚ほど掲載されていますが、その一枚です。 たぶん当時は「青葉城址」とセットの観光名所だったんでしょうね。

 私が見つけた、もうひとつの初代・八木山橋(現在の橋は二代目)の写真が左です。

八木山の吊り橋。S6に成る。 S20、30年のころの新聞を見ると3ヶ月に一人はとびおりて死んでいる・・・・ (仙台なつかしクラブ(2002)『ちょっと前の仙台 写真集:昭和の仙台 いつか見た街』, p.158)
これ以外にも、ネットを見ると初代・八木山橋の写真というのがいくつもあって、 [ 4.宮城県 23:八木山橋 ] とか、 [ 八木山橋 ] とか、 [ 吊橋時代の八木山橋(仙台市青葉区・太白区)] とか、 [ 金港堂週刊ベストセラーランキングで「クラシカルセンダイ」再び1位に ] とか、 [ 八木山橋 あの頃 ] とか‥。

 ちなみに、 [ 満開の桜の下、吊り橋を渡り八木山へ歩いた (広瀬川の記憶 22) ] というサイトによると、 初代・八木山橋の周辺には桜が植えられていて(植樹は1935(昭和10)年〜1937(昭和12)年)、 桜の時期には満開の桜であふれ、 それゆえ八木山橋は花見の名所だったという感じみたいです。 大渓谷の絶景と、満開の桜の花‥‥現存してないのが非常に勿体ないですね。

 ‥てか、上で紹介した [ 八木山橋 あの頃 ] というサイト、私より いろいろ集めて、ちゃんと書いてますね。 しまった! そんな立派なページがあるなら、こんなページ作らなくても よかった! ‥いや、でもここまで書いちゃったんで、今更ページ作るの、やめませんけどね。

 んで、この頃の、橋上の散策な雰囲気。そして、飛び込もうと思えばすぐに飛び込めそうな 高さにある欄干。うん。これなら十分「自殺の名所」となり得る感じですよね! まさに「みちのくの東尋坊」といった風情でしょうか。

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初代・八木山橋

この、風情のある初代・八木山橋ですけど。 どうやら八木家が私財を投じて建築し、 完成後に仙台市に寄付したみたいです。すごいなー。

大正末期から昭和にかけては、わが国全体が大衆文 化の時代を迎えます。 ‥(略)‥ 大正十五年、市営電車が走り出し、 市民散策の場所として桜ケ岡(西公園)、榴ケ岡、勝山 などの公園の整備も進みました。こうなると、八木山 も市民のいこいの場として脚光を浴びてきます。天守 台まで汗をかきながら登っても、あと行くところがあ りません。「竜ノ口渓谷に橋があればいい」という声が 大きくなったのです。久兵衛さんは、道路を造り、橋 を架けようと考えました。 ‥(略)‥ この橋はあくまで 「軍用道路」で、仙台市が維持管理する条件で許可さ れました。条件としては、(1)自動車は車体の重さを含 めて一トンを超えない(2)自動車の通過速度は時速八マ イル(十二・八キロ)を超えない(3)自動車は一台だけ 通過する(4)(人の)交通量が多くなったときは、自動車の 通行を禁止する--などです。‥(略)‥
 橋は後に自殺の名所として有名になりました。早く も昭和十年の河北新報紙上には「八木山橋でまた自殺」 「今月になってから三人目」などの記事が見られます。 太平洋戦争が終わったころも、後を絶たず、市では、 橋に自殺防止ネットを張って飛び込めないようにしま したが、効果はありませんでした。自殺者が出ると、 五代目久兵衛さんの長女・光さん(故人)は仏壇に線 香をあげて死者の冥福を祈りました。「ああ、いやだ ねえ。こう続くと父はなぜこんな橋を造ったのかと恨 みたくなるわねえ」と言うのが口癖でした。 (石澤友隆(2000)『八木山物語』河北新報社, pp.56--59)
この本によると、やはり観光名所、青葉城跡とセットにした 観光の目玉にしたい、との思惑はあったみたいですね。 自動車も 大型車でなければ、ゆっくりであれば、通過は可能だったようです。 そして今とは違って、1935(昭和10)年〜1945(昭和20)年頃は どうやら頻繁に飛び降りがあったのは確かなようです(-人-)

 さらに。石澤2000の、宮城県営八木山球場についての ところで:

 同球場の開場開きが行われた昭和四年六月と二年半 後の昭和六年十一月を、新聞報道で比較すると観客の 足に大きな変化がみられます。昭和四年当時は、「タ クシーの長い列が山に向かって進み、それにもまして 歩いて登る人は車の何千倍」だったのが、昭和六年に なると、「八木山橋のできた今日、八木山道はドライ ブ・ロードと化してバスとタクシーが列をなし、通行 者はまばら」とあります。わずかの期間で、仙台のモ ータリゼーションが急速に進んでいることが分かりま す。さらに、八木山橋の完成で山への交通事情がよく なったことも分かります。 (石澤2000, pp.68--69)
こんな風に書かれています。
つまり、 八木山球場(現在は動物公園の一部)で試合があるとき、 1929(昭和4)年だと、向山・八木山入口から 徒歩で登って観戦に向かう人が多かったのに、 1931(昭和6)年にはその道は「ドライブ・ロードと 化して」「通行者はまばら」となっていたという ことですけど(注意: 昭和六年の記述は「試合の日」に おける記述かどうか不明だし、また昭和四年の記述も 「試合の日」以外がどうかは不明。今だってKoboスタで 東北楽天の試合があった直後は 仙台駅まで歩く 人たちで歩道が埋めつくされていることを考えると、 この記述から「昭和四年から六年までの間に『モータリ ゼーション』の劇的な変化があった」と考えてしまうのは危険)。 つまり1931(昭和6)年の八木山橋完成とともに、 多くの仙台市民たちの 八木山山頂への主要なルートが 変わって、それまでは 霊屋下・向山・八木山入口経由だったものが、 川内・青葉城址・八木山橋ルートに変わったということですね (八木山橋は自動車の通行規制があったので、自動車は相変わらず 向山ルートが主流ということか)。

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二代目・八木山橋、最初は鉄柵なかったみたい‥

 ちなみに、二代目・八木山橋の開通直後(1965)の写真: これ [八木山橋開通]を見ると、あの、いかにも八木山橋らしい、 巨大な鉄柵というんですかね、あれって最初は なかったんですね。 [ 八木山橋 あの頃 ] というサイトを見ると その8年後、1973年頃には鉄柵がガッツリ付けられてるのは確認できますが‥。


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八木山橋バス停

八木山橋の麓には「八木山橋」という名前のバス停があります‥ありました (地下鉄東西線開業とともに、2015/12廃止) [Youtube]。私も何度も 仙台市バスの「青葉城址循環」(後に「動物公園循環」と改称するも2015/12廃止)に乗ってあのバス停の前を 通過したことがありますが、これまで一度もあそこで乗降する人に遭遇した経験がなく、 このバス停はいったい何故存在するのか?! というのは非常に疑問だったんですけど。

 でもそのナゾの答えは、このページのここまで書いてきた情報で、もう明白ですよね。 [ 八木山橋 あの頃 ] というサイトにすでに書かれていますけど、(昔は) 八木山橋が、竜ノ口渓谷の絶景を見ることができる観光名所だったから。 今となってはそれを記憶している人もほとんど存在していないような状態ですけど、 もともと八木山橋は観光と実用を兼ね備えた橋であり、それゆえ、 青葉城址から散策しながら あのバス停の位置あたりまで歩いてくる人が結講、いたから。 ‥そういうことなんですね。

 そして1965(昭和40)年の橋の架け替え、そしてその後の八木山地区などの宅地化により、 橋の自動車の交通量が増え、とてもじゃないけど徒歩散策というムードじゃなくなり、 単なる通勤通学のためのバイパス化してしまった八木山橋。 「八木山橋」バス停は、 大勢の人たちの散策、自殺、そして いつのまにか人が居なくなって車とバイクしか 通らなくなった八木山橋の移り変わりを(2015年まで)ずっと見続けてきたんですね。

 ‥いや、それはちょっと無茶かな? 初代の吊り橋は、バスのような 大型車は通れなかったんじゃないかという気もしますし‥

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日活映画「惜別の歌」(1962)には出てこず‥

1962(昭和37)年、つまり初代の橋から二代目の現在の橋への架け替えが行われた年の3年前。 小林旭主演の日活映画『惜別の歌』の 撮影のため、小林旭さんが青葉城址を訪れていることは映画から確認できます。 そこまで来ていて、何故 八木山橋にロケに行かなかったのか? ロケはしたけど、その フィルムはボツになってしまったのか?? ‥などがちょっと気になります。 その頃はもう八木山橋は観光名所でなくなっていた可能性もあるかも‥ (「橋は戦後架け替えられます。仙台市は、昭和三十七年、新産業都市大仙台の 総合公園構想の一環として橋の再建に取り掛かり、二年半後に完成します。 これが今の橋です」(石澤2000, p.60) とあるので、ひょっとして 二代目八木山橋の工事が始まっていたから回避、という可能性もありそう)

 心霊スポットとして、この橋を「怖い」という人は結講いるみたいです。 私にはそういう霊感みたいなのは ないですので、その話題については 何も言えません。けど私は、別の意味でこの橋が怖いです。 この橋、なんかちょっと段差があって、橋の上に上がると 「ごっとん」という感じの軽い衝撃があるんですけど。その音を聞くたび、なぜか 「この橋、まさか落ちないよな」という不安が頭をよぎるのです^^; なので渋滞に巻き込まれて、この橋の上に長時間いるハメになったりしたとき 私は妙にイヤな汗ダラダラになってしまいます。

 ちなみに八木山・青葉山近辺だと、この八木山橋以外にも、青葉橋とかも景色がよくて 私は好きなんですけどね。8月の花火の時とか、けっこう正面で花火が見れますし‥。 このへん、もっと気持ちよく歩けるようになってればいいんですけどね。

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[余談] 仙台一番町の心霊スポットは忘却された‥

「八木山橋は心霊スポット」という話、検索すると あちこちで見かけますけど。

でもそれもそのうち忘却されるんだろうなー、と 思ってしまいそうな話を見つけたのでメモしておきます。 昔、仙台市の一番町にも心霊スポットがあったらしいぜ、 という話なんですけど‥

仙台一の繁華街東一番丁も明治になるまでは、杉の生 垣や土塀をめぐらした静寂な侍屋敷の町だった。一歩横 丁に入ると、杉の枝が両側から覆いかぶさり、カヤやヨ モギが生い茂った道で狐や狸も歩いていたという。今の 市立病院際の横丁などは「化物横丁」とよばれ、夜には 鬼火が燃えると噂されたほどである。お産の汚物の捨場 であったからだという。 (菊地勝之助(1976)『修正増補 仙台地名考』宝文堂, p.192a)
この本がいう1976(昭和51)年時点での「今の市立病院」 があった場所というのは、 2014(平成26)年現在は仙台第一生命タワービルディングのある場所(一番町から見ると、ボウルサンシャインの裏)だそうです。

 時期に関してですけど。そのへんが「化物横丁」と呼ばれた理由が 「お産の汚物の捨場」ということですから、 あそこに病院があった時期か? ‥とも思いましたけど (ちなみに そこに市立病院があったのは1930(昭和5)年〜1980(昭和55)年)、 文脈からすると江戸時代から明治初期までの話のようですから、 市立病院とは関係なく、あのへんは「出る」場所になってたみたいです。

 ただ、ネット等で検索してみても、この「化物横丁」の伝説は ほぼ完全に忘却されてしまってるみたいですね。まあ、今あのへんは おどろおどろしい雰囲気って全然ないですから、仕方ないですけど。 ただ逆に言えば、「心霊スポット」ってやっぱ単なるムード、というか 単なる気分的なもの。って感じなんですかね。

 だからきっと、あと50年もすれば「八木山橋は心霊スポット」なんて話、 知ってる人は誰もいなくなりそう‥


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