川内追廻地区は、江戸時代は伊達家家老の片倉家の仙台屋敷と、 その奥は広場になっていて 文字通り追馬場・厩舎などがあったようです。
明治維新の後は陸軍の所有となり、練兵場となっています。 1938(昭和13)年の地図を見てみると、現在の川内追廻一帯は「追回シ練兵場」、 その奥に「射的場」とあるだけで、昭和20年、太平洋戦争終了までの頃は、 (2000年頃に)人々が住んでいたあたりには 住宅は一軒もないようだ、ということが わかります。
[Table of Contents]では、いつ頃から川内追廻に人が住むようになったのか。 このへんについて Wikipedia にはこう書かれています:
このあたりの展開については、菊地1976にも‥
なぜなら。この仮設住宅をめぐって住民と仙台市が大モメとなってしまうからです。 その詳細は正直私もよくわかっていないんですけど。どうやら 住宅を提供した当事者である「住宅営団」が1946(昭和21)年にGHQによって 強制的に解散させられてしまったのが大きかったみたいです。 つまり、その解散後に団地の管理主体が仙台市に移ったんだろうと思うんですけど、 でも営団と住民たちが具体的にどのような契約をかわしたのかを 仙台市は把握していなかった、そういうことなんでしょうね。
仙台市としては もともと仮設住宅のつもりだったから、 そのうち住民はいなくなるはず → 余計なインフラを整備しても近々ムダになるから整備しない、と。 住民としては「いや、俺はこの家をカネだして買ったんだから!」と。‥‥ そんな感じで住民と行政が真っ向から対立してしまって、 しかも公共インフラも整備されない。このへんのことにより、 川内追廻地区には 他の地区にはない、 なんか一種特殊なムードが生じてしまったのは事実だと思います。
そんな中、2013年現在の段階では かなりのお宅が立ち退きに同意したみたいで、 かなり空地が目立ってきています。立ち退いた元住民の人たちの多くは、 心おだやかでない人たちも多いとは思いますけど、とりあえず 行政と住民のあいだのイザコザが解消されたことは良かったと思います。
[Table of Contents]1936(昭和11)年4月、評定河原に仙台市初の動物園が誕生します。しかしこの動物園は 戦争による社会情勢の悪化により 1944(昭和19)年に閉鎖および動物の殺処分、 そして1945(昭和20)年には空襲で焼失してしまいます。
戦後、動物園が復活したのは1957(昭和32)年の三居沢の「子供動物園」。 しかしここは敷地が狭く、はやくも1961(昭和36)年には、子どもたちから 「もっと広い動物園にしてほしい」との声が出たみたいです。当時の島野市長が この声に答えるべく、新動物園構想を立ち上げるんですけど。
川内追廻近くの橋といえば「大橋」ですけど。その一つ上流にあるのが 仲ノ瀬橋。たぶんその仲ノ瀬橋1950年頃の写真らしきものを 紹介しているサイトがあったので、紹介しておきます。 [ 水害で橋が流された後、粗末な仮橋を渡った (広瀬川の記憶 1) ] です。 現在の 巨大な仲ノ瀬橋と比べると、なかなか‥。