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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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徒歩巡礼が当然だったが‥

巡礼スタイルについて。今では自動車巡礼が一般的ではありますが、 それに関する記事(投書)を『広報あきた』に見つけましたので、紹介させていただきます。

昭和四十三年に、親類の人に連れられ、長年の念願であった札打ちに行くことができた。この日は、割と天候には恵まれた。三十五の札所があり、約六時間近くかかった記憶がある。足を棒にするとはこのことであった。 途中、自動車に乗った巡拝者に大勢出会った。今では当たり前だろうが、当時、札打ちは徒歩でと思っていた私たちは不思議に思ったものである。 (『広報あきた』vol.946 (1984/02/10) 随想横丁)
六時間! なんかムチャクチャ長そうなんですけど、他方
  • 「熊野山で会った古老の「昔は吹雪く中を十時間もかかって歩いて札打ちをした。それでこそ、ご利益があるのだ」という話」(『広報あきた』vol.876, 随想横丁; 1982/03/01)
  • 「金足では朝の二時から起きて三十三番札所で ある一番熊野山から三十三番の宝塔寺まで歩いて廻る。家にもどるのは翌朝に なるものであったという」 (『秋田市史 第16巻 民俗編』2003(H15), pp.522-523. 「宝塔寺」というのは全良寺(普門寺の代行)の間違い?)
この金足の「翌朝」というのはちょっと気になりますね。16日の朝を指してるのか、 まさか17日の朝?! でも、いくら何でも久保田三十三を回るのに24時間は必要ないですよね。 ついでにどこかで道草も食ってるとか、そういう感じなんでしょうか。 いずれにせよ、これらを見ると所要6時間というのは意外と足が速い人たちなんですね、 たぶん。‥というのはともかく、やっぱ1960年代後半なんですね。 巡礼スタイルが大きく変わったのって。

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戦災は遠くになりにけり‥

 つまり1950年代は終戦後まだ間もないということなんでしょうか。巡礼者は非常に多く、 そして徒歩巡礼だった。しかし1960年代になると本格的な戦後復興・高度経済成長期に入り、 戦死・戦災で亡くなった人たちの記憶がようやく「過去のもの」化しつつあった。 それゆえ巡礼者は減少し、巡礼スタイルも自動車化していった。‥と、 そんな感じで総括できそうです。ありきたりな総括になっちゃってますけど。

 ところで。上記検索結果の1953(S28)年の記事の「キーワード」の項目を見ると 「普門寺」と書かれてあります。 普門寺、この時期はまだあった、ってことですよね! うわー。この記事見てー!! (注: 別資料によると、普門寺は昭和15年に跡継不在のため廃寺、とありました。 情報が錯綜してますね‥)

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