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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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[昭和]人出の変遷

秋田県立図書館 [URL]の 「秋田魁新報記事見出し検索データベース」で「札打ち」で検索を かけると何件かヒットします。そのうち、いくつかを抜粋してみます:

  1. 「穏やかな札打ち // 善男善女も物足らぬ風情」(1948(S23)/1/17朝2)
  2. 「札打ちにザッと六千人 // 寺々に押かけた善男善女」(1952(S27)/1/17夕2)
  3. 「善男善女約一万 // けさ恒例の「札打ち」」 (1953(S28)/1/17夕2)
  4. 「暴風雪の中を札打ち // 善男善女も例年の半数」 (1963(S38)/1/16夕2)
  5. 「早朝から札打ち // 好天で人出三割増」 (1964(S39)/1/16夕3)
  6. 「ちょっとしたブーム // 秋田市内 三十三カ寺の札打ち巡り // 毎年二千人が巡拝」(1983(S58)/1/6朝12)
  7. 「夜を徹して身内の霊供養 // 札打ちに参拝者の列」(1987(S62)/1/16夕3)
  8. 「夜を徹して寺社を巡拝 // 暖冬で人出倍増 // 秋田市の札打ち」(1988(S63)/1/16夕3)
あと1953年には巡礼者が一万人(! 多すぎ? 1952年は6000人だしなあ‥)いたのが、 1980年代には二千人に激減してるのがわかります。ただし見出しだけ見ても 「倍増」「半減」「三割増」と、人出はあまり安定してないようですし、さらに 人出のカウントの仕方もかなりのどんぶり勘定であることは間違いなさそうですので、 「激減」といえるほどの減少なのかというのは良くわからないですね。 でも減少傾向にあるのは間違いないでしょう。

 この手の伝承って、どこかで一回プツリと切れると終わりですからねー。かくいう私も 実際に身内に不幸があって、それで母親に「ふだうち‥」とボソッと言われるまでは、 このような風俗の存在さえ知りませんでした。 これまで身内の不幸が起こったのって、物心つく前の時期か、 あるいは秋田を離れて暮らしていた時期ばっかりでしたから、それだと 巡礼隊からは除外される(わざわざ秋田まで呼び戻すほどじゃない)→連絡さえ来ない、 という感じになっちゃってたんですね。ですから私も巡礼の人が減っていることについて、 まったく大きなことは言えません(^_^;;

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