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[前] はじめに

松島順礼三十三所(1)

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由来

時期的にはどの頃か? というのは正直、よくわかりません。 ただ、1800年頃の書物にあるみたいですから、 18世紀中頃の成立なんでしょうかね。 仙台市宮城野区中野の誓渡寺にある「宮城三十三番札所観世音菩薩之塔」が 1793(寛政5)年建立のようです [URL] けど、ほぼそれと同時期になりますよね。

 ということはたぶん、 仙台三十三 [URL]とか、 宮城三十三 [URL]とか、 奥州三十三とかが 相次いで成立した(宮城だけじゃなく、日本全国各地に同様のものがボコボコと 成立したっぽい) 1720〜1730年頃に、松島でも、非常にささやかなものではあるが 成立した、と。‥そんな感じでしょうか。

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奥州名所図会

松島順礼三十三所は、往昔五大堂の東浜に舟師(かこ)五十余 戸を置き(かこ町と云ふ)て、国守の御船を守らしむる中に、 (eKanji data)工利(ふなだいく)三太なるもの幼きより観音を信心し、歯耳順(よはいにじゅん)に及びて瑞巌及び支流の諸堂・奇峰・浄岳、その余松島の諸 勝中に西国三十三所の霊跡をかたどり、聖像を置き、朝 に瑞巌に詠歌して那智に擬し、夕に三聖堂に終る。これ を谷汲に比するとなり。沙をあつめて塔をつくるものは ただ一己の為にす。これは他をして良縁を結ばしめんと なり、その功徳幾ぞや。 (出典は「奥州名所図会」(19c初) (松島町史編纂委員会(1989)『松島町史(資料編II)』,p.930))

[概要] 松島順礼三十三所について。むかし五大堂の東浜の舟師(かこ)町の住人の中に、 船大工三太なる者がいた。三太は幼き頃より観音を信仰し、六十歳になったとき、 瑞巌寺など松島各所に西国三十三を模して聖像を置き、朝は瑞巌寺から、 夕は三聖堂までお詣りしたのである。三太の行動は、他人に良縁を結ばせるためのものゆえ、 すごい功徳だ。 (類似の記述が「松島諸勝記追加」(1816)にあり(松島町史,p.832))

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松島実記附録

三十三所観音は五大堂の東浜に舟師四十四員あり。そ のうち利三太といふものありて、幼少より観音索多をし んじんす。齢すでに七十の老をたもちて瑞巌寺の執事に 希らる。然るにこの翁西国三十三所の霊蹟を松島にかた どりその数をもとめて配立せりという。 (出典は「松島実記附録」(時期不明。新しい?) (松島町史編纂委員会(1989)『松島町史(資料編II)』,p.796))

[概要] 三十三所観音は、五大堂の東浜にいた舟師の利三太が、幼い頃より 観音様に信心があったが、七十歳すぎて瑞巌寺の執事になり、 そのとき西国三十三の「写し」を松島に配置した。

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つぶやき

観音音札所に地蔵堂とか山王堂(三吉神社)とか入ってるけど‥と心配することなかれ。 神仏分離(1868(慶応4:明治元)年)以前は神仏はそんなに区別されるべき存在ではありませんでした。さらに 今回の場合、三太が「聖像を置き」と書いてあります。つまり、 たとえ観音様がなかったような場所でも、三太が観音様を置いたわけですから、 とたんに観音霊地へと 変身できたという訳です。 たぶん一つも現存してないと思いますが‥(というか、人々の記憶からも完全に 消えていると思いますが)。

 ちなみに、どんな感じの観音像が置かれたかといえば。 「奥州名所図会」の「長谷崎」の項に「今この地に信男等小石の観音大士の像を設けて旧跡に置く。 松島順礼の一場なり」(松島町史,p.936)とあります。 「小石の観音大士の像」とありますので、たぶん、 かなり小さめの観音石像だったんじゃないかと思われます。ですから、 あちこちの文献で言及されているようなので一時期はそれなりに知られていた、しかし 小さい石像だったこともあって、一時的なブームが過ぎると速攻で忘却された、 という感じなんでしょうか。





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