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札所の設立時期について、吉岡1992は1780年代のあたりか? と推測しています。 その根拠として、この宮城三十三の札所のほとんどが他の「三十三観音」と 重複していない点をあげています。 つまり各札所は 既存の他の札所との重複を避けて設定されたのではないか、んで、 「既存の他の札所」を知っているということはつまり成立はそんなに早くないのでは、 ということですね。私としましては、その根拠はちょっと弱いなー とは思いますが、 代案がある訳でもないですので、そのような推定があると紹介するにとどめます。 (なお、仙台三十三は17世紀末頃に本格化。奥州三十三は伝説的起源はさておき、 1761(宝歴11)年に「復興」[*]だ そうです。ということは、宮城三十三の創設は奥州三十三の復興とは時期的にはかなり近いと いうことになります。)
ただ、宮城三十三の成立はたぶん吉岡1992の推定よりも それなりに早かったのでは ないかとも思います。15番札所となっている中野村神妻・中源寺 について、 その寺は1780年代に書かれた「安永風土記」ではすでに「旧跡」扱いされていて、さらに 「山号も宗派も不明」とされています。11番安楽寺も同様です。 同じ1780年代に「宮城三十三」を選定するとき そんな場所を札所に選ぶか? 選ぶとしたら、荒廃するよりもっと前の、 寺(や観音堂)が実際に機能していた時期じゃないと変じゃね? と考えてみますと、 宮城三十三の成立は1780年代よりも最低でも10〜20年くらいは前でないとおかしくないか? と思ったりするわけです。 ちなみに。吉岡1992が1780年代説を取ったり、 その1780年代には中源寺が荒廃してたと推測されたり‥と、やたら言及が1780年代に 集中するのは どちらも同じ「封内風土記」「安永風土記」を参照してるからですね。 間違いない。なお、「封内風土記」と「安永風土記((安永)風土記御用書出)」との 関係につきましては[Wikipedia]をどうぞ。私もWikipediaを読んで 「へー、なるほど」と思いました。
「安永風土記」について。これは何かというと、安永年間(1780年代)に、 それぞれの村の人たちが自分の村についてあれこれ書いた(書かされた)文書、また それら文書を集成したものです。じつはこの「安永風土記」を見てみると、 上記石碑に書かれている内容とちょっと合ってないところがあり、 それはちょっと何なんだろうと気にならないことはありません。たとえば 二番は「舟迫村 天神堂」とありますが、風土記の 柴田郡舟迫村の項には、阿弥陀堂と太子堂があると書かれていますが、 天神堂についての記述はありません。 三番「笠島 塩通寺」についても同様で、 風土記の笠島村の項には「塩通寺」の「え」の字も見当たりません。 ‥‥そんなこんなで札所の場所、たぶんここだろう程度のものを入れても かなりの札所がわかりません。うー。
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