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よいこのための 世尊釈迦牟尼如来応供等正覚者 ものがたり


[前] むちりんだ、せそん を おまもりする

えんぎ

ふたたび世尊はボダイ樹の下に戻られました。戻られた世尊は樹の下に腰を おろされ、姿勢をただして「縁起」について想いを巡らされました。

「人はなぜ苦しみにあえぐのか。 それには因果関係があるはずだ。思うに..

無知が潜在的形成力を起こす原因になっていて、 潜在的形成力があるために意識を持たされちゃって、 意識があるとモノが存在しているような気になってきちゃうし、 モノがあるってこたあ、それに対応した感覚器官があることになるし、 感覚器官があるとモノと接触してしまうし、 接触してしまうと感覚として伝わってくるし、 感覚があると感覚を求めるようになってしまうし、 欲求は執着に変わっていくし、 執着があるために生物として存在しなきゃいけなくなるし、 生物として存在するとなると生まれてこなきゃなんねえし、 生まれてきてしまうってこたあ、べらんめえ、生物に特有の、 老いたり、病気にかかったり、死んだり、とかの恐怖におびえて暮らさねえと いけなくなるだろ。

これだと、やっぱ「苦」にまみれるしかなくなるもんな。

でもよ、これを逆にすっとどうなるか。ちょいとやってみるか。まず..

無知じゃなくなると潜在的形成力がなくなっちゃって、 潜在的形成力がなくなると意識もなくなる。 意識がなくなるとモノがあるようには思えなくなるよな。 ... だって意識がねえんだもんな。 そいでモノがなくなると感覚器官も用がなくなるし、 感覚器官がないと接触もなくなるよなあ。 そいで接触がないってこたあ感覚がなくなるわけだし、 感覚がないと感覚を求めるなんてこともなくならあ。 ... だから、キモチイイコトシタイなんてことも考えなくなるわなあ。 ついで感覚を求めなくなるってこたあ執着のココロもなくなる、ってコトで、 執着がなくなると生物として存在しなきゃいけなくなることもなくなるし、 そうなると生まれてくることもなくなるし、 そうなったら、おまいさん、トシとったり、病気したり、死んだり、とかの 恐怖におびえて暮らす必要なんざ、なくならあな。

なんと目出度いことじゃないかい、ええ。 こうなったら、もう「苦」なんてどこにもなくなっちまうじゃないか」
世尊はこうして一週間のあいだ「縁起」を吟味なされました。 そしてその後、立ち上がられて、こう仰せになりました。
「修業に熱心なバラモンがこの法を知ったなら、 その者の疑惑は消えてなくなる!

がははははははははは」
あたりには世尊の高笑いの声が響きわたっていました。

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