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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


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[資料] 黒沢市兵衛口上内容

大野村で、最初の乱闘事件が起こったのが7月24日。 その翌日の7月25日付で 黒沢市兵衛が書いた口上書の内容(の現代語大雑把訳)は 以下のようなものです。 紛争当事者の片方が書いた口上書ですから、内容についてはフェアでない点が 多いのは確かでしょうけど。でも、紛争の翌日付で書かれた記録ですから 「何が起こったか」を知るための最重要資料の一つなのは間違いないということで、 ここで紹介しておきます。

(自分で大雑把訳しようかとも思いましたけど、相場信太郎1981 にすでに 大雑把訳がありますから、それを紹介させていただきます。)

 昨日大野村へ魚釣りに行き、昼七ツ半ごろ(午後二時)大野川で糸を垂れていたところ、川舟に 草を積んだ十四、五人の百姓が、引き綱で舟を引きながら通り過ぎようとして、市兵衛のからだ に綱をひっかけた。 [p.6]

 そこで市兵衛は「拙者が見えぬはずがな いのに無礼であろう。」と叱ったところ、舟 を引いている者の言うには「おさむらい様 の釣りはご公儀のご用ではございますまい」 などと事々に悪口をたたくので、市兵衛と 百姓たちのはげしい口論となった。

 するうち、舟乗りの一人がクイをもって 市兵衛に打ってかかったので、市兵衛は刀 を抜いて争ううちに、二人の百姓に傷を負 わせてしまった。これを見た舟乗りどもは 一斉に岸へ飛び移り、クイや棒を振り上げ て市兵衛に打ってかかった。すこし離れて 釣りをしていた連れの小貫万七がおどろい てかけつけ、市兵衛に助太刀をしたので百 姓たちは逃げ去った。

 そこへ大野村の肝煎がやって来て「いか がなされた」というので、市兵衛は「不届きの仕打ちがあったので、百姓二人を手負いにした。 拙者は黒沢市兵衛と言う者、左様心得られい」と名乗り、肝煎と連れ立って村端まで来ると、先 刻逃げた者や棍棒を持った大勢の村人たちが市兵衛に飛びかかり、散々にいためつけた。

 多勢に無勢のため市兵衛は力およばず、百姓たちに打ち負かされ、そのうえ大小を奪われ、ナ ワまで掛けようとするので「待たれい! 拙者は逃げかくれはせぬ。侍に似合わぬことがあったと しても、侍にナワを掛けるという法はない。やめられい!」と声荒く制止したが、大勢の百姓た ちは市兵衛をしばり上げ、梅津家の家臣根元今右エ門の所へ引き立てようとした。

 しかし、途中から大野へ引き返し、百姓治兵衛宅に連れ込んだ。やがて万七の急報によるもの か、市兵衛の親類の者が駆けつけ、間もなく梅津家の家臣柳田数馬がやって来て、市兵衛のナワ [p.7] を解いた。 (相場1981, pp.5--7)

まず口論、それが暴力事件に発展、黒沢は二人にケガをさせたら、今度は大勢して反撃、 黒沢には万七が助太刀、百姓らは逃げ出すが、村端で黒沢を急襲、 破れた黒沢はナワをかけられる。やがて黒沢の身内が救出にやってきた‥と。

 百姓たちはなぜ そこまで執拗に黒沢に襲いかかったのか、 最初は梅津家家臣根元氏のもとに連行(!)しようとしたのに、なぜ途中でやめて 引き返してきたのか。 ‥相場信太郎氏は「当人は自己の罪を軽く秤量してもらうため、有利な申立て をしたものであろう」(相場1981, p.7) と推測していましたけど。 たぶん、それと同じ理由で、 口上書には何も書かれてないですけど、おそらく 黒沢が百姓たちをそこまで激怒させ敵視させる何かがあった(起こった)んだろうとは思います。 (ナワ掛けした理由については「人を切候者之義に候間」とあり、つまり 「人を斬ったやつだ。何すっか、わがんね」(大雑把訳)という理由だったみたいです。)

 口論の末カッとなりすぎた黒沢が 何か悪いことをしてしまった可能性もありそうです。 人を斬った、つまり(たかが)釣り関係の口論で激昂し 刀を振り回してケガさせたことがデカそうですけど。それ以外にも たとえば暴れて兄弟の舟荷を全部川に落とすとか、舟を壊すとか‥。 これに激怒した兄弟ら、百姓らが襲いかかって黒沢にナワをかけ、 梅津家のもとに連行しようとした。しかし黒沢に「俺も悪いが、 侍にナワをかけた貴様らのほうが重罪だ!」と言われて 不安になってきた。どうすべ? と皆で悩んでたら黒沢の救援が来た。 ‥‥こんな感じの展開を、どうしても妄想してしまいますけど。 でも書かれてないことは何もわからないですから、これも妄想の域を出ません。

 ちなみに黒沢の口上書を見ると、 伝説で言われる「最初に事件の契機をつくった二人の兄弟」の存在が希薄になってるのが 気になるところではあります。この兄弟は、おそらく最初に傷を負わされた二人という ことになるんでしょうけど。でもこの二人だけが主犯扱いされて磔刑になる、 それほど他の百姓らと別格扱いされる理由が何なのかというのは、 この口上書からはイマイチはっきりしません。舟に乗っていた十四、五人くらいの 百姓がほぼ同罪になって当然という感じに見えますよね。 ‥そういう点から見ても、この口上書には書かれていない何かがあって、 それが判決に重大な影響を与えたことは間違いないとは思います。やっぱこれも妄想ですけどね。

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