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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


[前] それでも謎は残る

決着

本書を刊行した直後、1982(昭和57)年に新たな展開がありました。

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目撃証言、あった!

それが同書末尾についている「補遺」(pp.33-36)で示されていますが、 そこで、ついに! すべての謎が解かれることとなったのです。

  • 刑場について。当時は「所成敗」という制度があり、公の刑場以外の場所でも 刑の執行は普通に行われていたらしいことが明らかになった、と (この話はすでに1935年版でも物好庵氏が指摘していました(pp.25)けど、 結局それを認めざるを得なくなったんですね)
  • 本当に磔したのか? について。 当時の民間記録好きが書いた"日記"の古文書の冒頭に、大野事件の 処刑を見物した旨が書かれていたのを見つけた、と。 (これは決定的証拠。 というか、こんなのよく見つけたなあ‥)
この後者について。こんな感じに書いてあったようです(直接関係してる箇所だけ):
十月十二日大野者共廿三人御せいとふ罷成候、大野村の川原の方に而被切申候、 兄弟両人はり付、壱人の塩付をはり付懸、其外廿一人は打首、手前共も 御座敷より見物に参申候 (p.36)
10月12日大野村の23人が成敗された。大野村の川原の方で切られたが、 兄弟二人は磔。一人の塩付も磔。他の21人は打首。 我々は御座敷から見物した。

 「塩付」というのが出てきます。たぶん、 処刑を執行する前に亡くなってしまった人が一人いたんですね。だから処刑の時まで 遺体を腐敗させないよう塩漬けにして、それで刑を執行したということなんですね。 なるほど。‥‥‥‥南無南無。(-人-)

 かくて、やはり罪人(一揆の扱いになるんですかね?)として処刑されていたこと、 斬殺の場所は大野村の川原のへん、 『俗称やぶれの地点』という地元の言い伝えで合っていたことが確認されて 本書は終わりとなります。 これまで伝説としてしか知られていなかった事件における 事実関係がかなり明らかになったものの、その事実関係は期待していたものとは 違っていて、あんまり良いものではなかった --- 信太郎氏の胸中は複雑であったろうと推察されますが、とりあえず、 事実関係を明らかにできたことは良かったのではないかと思います。

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[余談] 目撃証言は、しかし‥

大野のあゆみ編集委員会編(2003,平成15)『秋田蕗の里 大野のあゆみ』に、 ビックリするようなことが書かれてましたので紹介させていただきます。

 上で紹介した目撃証言についてなんですけど‥

「日記抜書」とタイトルのあるこの古文書は、残念なことに今はゆくえ不明 である。(p.47)
おおお! 重大証言なのに、2003年段階で すでに検証できなくなってるじゃん!! (^o^;; ‥まあ、公刊された書籍とはちがって、 個人蔵の古文書を、個人的なツテで たまたま運よく相場信太郎さんが見つけたという 感じのものみたいですからねー。んー。 個人蔵の古文書であれば、そういうのは あり得る話ではありますし、 まあ、この証言の内容は信太郎さんにとっては 自らの信念・期待を裏切る感じの内容のものですから、まさか捏造なんてことは ありえないとは思いますけど‥。

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