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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


[前] 決着

[私見] 処断が遅くないか?

個人的にちょっと気になるのが、実際に事件が起こってから処断まで 3ヶ月もかかっている点です。

 つまり。当時の記録によれば事件は7月、判決は8月、処断は10月に起きたことになっていて、 事件から処断まで3ヶ月、判決から処断までを見ても2ヶ月も空いています。 なんでこんなに空いたんでしょうか。何らかの駆け引きがあったのでは? なんてことを 妄想してしまいそうになります。 (以下妄想)

  • 「主家梅津氏」は事件の前年に先代・忠宴公が亡くなり、忠昭公が後を継いだばかり。 「梅津家にしても自分の支配下に起つた不祥事故、家柄の権勢を利用して助命運動をしたことは ありそうな事項である」(相場1935, p.18; 武藤氏の指摘)
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  • 萬雄寺あたりが何かしていた可能性もある? 「近世にも寺院への駈込みやそれによる赦免が珍しくなかったことは、寺院の駈込みが、近世に製作 された類書とよばれる、一種の百科事典に登場することからもうかがえる。」 (神田千里(2010)『宗教で読む戦国時代』講談社選書メチエ459, p.146) 秋田でも、大葛金山で 起こった一揆の首謀者が寺院に逃げ込んで、寺院の救済活動によって赦免が実現した例があるらしいです (荻慎一郎(2012)『近世鉱山をささえた人びと』山川出版社 日本史リブレット89, p.97)。 これと同じようなことが萬雄寺を舞台にして起こっていた可能性もありそう。ただ、この場合は 農民たちが萬雄寺に駈け込んでないとダメな気がしますけど、駈け込む前にそのまま 身柄確保された可能性が高そう‥。
いずれにせよ当時はすでに「太平の世」になってたはずですから、できれば殺さずに 済ませたい との思惑を持ってる人はそれなりにいたとは思いますので、 何かうまい落とし所はなかったのかなー、と思うとやっぱ残念です。

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