[仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 (発心因縁十王経、地蔵十王経)]

地蔵十王経について

成都府大聖慈恩寺沙門蔵川述
『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(12世紀?)
(発心因縁十王経、地蔵十王経)

に関する「めも」です。


[前] 亡者と供養

一週ごとに出現する王たち

[Table of Contents]

「七日」はキリがいいらしい

まず。仏教に限った話かどうかわかりませんが、 時間の単位として「七日」、すなわち一週間ですよね。 それがよく使われるみたいです。

 いつから「一週間」という言葉が使われるようになったのか、 というのは(調べてないので)よくわかりません。昔はそれと同じ意味で「七日」という 単語が使われたようです。一週間であれば「一七日」、 二週間であれば「二七日」、三週間であれば「三七日」‥と。

 そしてこの「地蔵十王経」によれば、人の死後、七人の王たちが 一七日から七七日まで七日おきに出現し、 その後は八〜十番目の王たちが百日、一年、二年後に出現したところで オチも救いも何もないまま経典が終了しています。

[Table of Contents]

七日ごとの供養の典拠は梵網経?

そして、日本仏教的な死者供養の作法では、 人の没後、七七日までは一週おきに法要をするのが望ましい、という 感じになっていると思われます(しかし大抵は、毎週やるのは大変なので 本葬の日にまとめて七回分やってしまうことが多いとは思いますけど。 ポイントは「本当ならば七回やるんだけど‥」となっている点です)。

 んで、この「一週おきの法要」というのは、たぶんこの「地蔵十王経」の 七人の王たちが一週おきに登場(‥いや、登場してないですけどね^^;) することと対応してるんだろうとは思います。実際、 「真言宗御室派 善正寺」さんのQAのページの【ご質問 六】を見ると、初七日は不動明王、二七日は釈迦如来‥と、 地蔵十王経で本地とされる仏菩薩が、地蔵十王経におけるのと同じ順番で列挙されています。 (ただ、八番目からはちょっと違ってますけど。これってやっぱ、七七日以降への関心の薄さの せいでしょうね。いかにも取ってつけた感じ‥)

 でもネット上などでいろいろ情報を見てみると、一週おきに法要をおこなう 根拠は『梵網経』にある、という記述を見かけたりします。探してみると、 これですね(第39軽戒 不修福慧戒):

若佛子。常應教化一切衆生。建立僧房山 林園田立作佛塔。冬夏安居坐禪處所。一切 行道處。皆應立之。而菩薩應爲一切衆生 講説大乘經律。若疾病國難賊難。父母兄 弟和上阿闍梨亡滅之日。及三七日乃至七 七日。亦應讀誦講説大乘經律。齋會求 福行來治生。 (梵網經(大正1484. p.24:1008b8); [SAT])
[大雑把訳] 「一切衆生の教化のために寺を建て、あちこちに仏塔や坐禅所を作るべし。 そして菩薩たちは一切衆生のため大乗経律を講説せよ。 疾病国難賊難などで父母兄弟や師などが亡くなったら、その命日、そして 三七日から七七日まで(一週ごとに)大乗経律を読誦し講説して、 斎会を開き福を求めよ」

 身近な人の死後、適切な頃合に「斎会」なるものを 開くというんですから、たぶんそれは追善供養が目的なんだろうとは思いますし、 そういう点では「一周ごとの法要」の根拠になっているんだろうと思います。

 しかしちょっと気になるのは「三七日から七七日まで」とあること。 つまり、一七日と二七日については何も書かれていないのです。‥あれ? 一七日って、 初七日のことで、命日そのものとは違いますよね? 一週間後ですよね? だって、そうしないと七七日が49日じゃなくなるから‥。ということは『梵網経』では わざわざ一七日、二七日を飛ばしてるということですよね。何か理由とかあるのかな??

 いずれにせよ、たぶん『梵網経』のこの部分が、七日おき法要の重要な典拠であると 考える人もいる、ということを紹介させていただきました。

[Table of Contents]

8:平等王は「百日目」

ここまで、七七日(49日目)までは一週間おきに法事をする、という流れがあるのは わかります。そして、この死後七七日(49日)までの期間が、 いわゆる「中陰」というやつ [Wikipedia]で、死者供養もそこで一段落つくはずなんですけど。

 しかし「地蔵十王経」の記述はそこでは終わりません。 というか 「地蔵十王経」の七七日のところを 見ても、そこで亡者に何らかの質的転換が 訪れるような感じにも あまり見えないんですよね‥。それはそうと。 八番目の王、平等王が「週」とか「年」と関係がない「百日」という ちょっと微妙な日数のところに待ち構えているのです。何なのこれ?

 ‥よくわからないんですけど。 たまたま見かけた、日本の民俗関係の論文に以下のような記述があるのを見かけました:

ホトケオロシは死んだ人の霊を呼びだすものであるので、別な言い 方で「死口」と呼ばれることが理解できたが、これに対して生きている人間の霊を呼びだ して同じように語らせることを「生口」といい、対になっている。さらに、死口を新口と 古口とに分けることができる。『〔縮刷版〕日本民俗事典』によると、「この両者のけじめは 所によって必ずしも明確ではないが、100日とする例が最も多い。つまり死後100日以上 経過した場合のホトケオロシを古口といい、それ以内の死者に対するときには新口と称す る」②とある。さらに時期の違いに加えて、新古二つのホトケオロシの手法において明ら かな相違があることをあげている。すなわち、新口は家に巫者を招いて祭壇を作ってホト ケオロシが行なわれるのに対して、古口は巫家において行われるのである③。このように、 死後100日の区切りをもうけることによって、ホトケオロシ自体が、この世からあの世へ 死者を送りだす葬送儀礼の一部であるのか、それとも一旦あの世に辿り着いたホトケを呼 び戻して供養する行為なのかという違いを明確に意識化していると考えられる。 (佐々木 清志(2010)「死別の悲嘆とホトケオロシ――岩手県宮古市の葬送儀礼――」 『臨床死生学研究会研究報告』東北大学臨床死生学研究会. [PDF])
起源はどこから? というのはよくわからないんですけど。日本の民俗宗教の中に、 死者が「新口」から「古口」に変わる、つまり死者に何らかの質的な変化が訪れる タイミングが死後七七日(49日)ではなく死後100日である、とするものもある、と。

[Table of Contents]

十人が先か、合流が先か (よくわからない)

たぶん「死後七七日後こそ重要」派の人たちと、これら「死後百日後こそ重要」派の人たちの 折衷案という感じで七日おきの王と、百日目の王が同居させられた。 そしてさらに、 中国や日本古来の考え方であった(可能性もある)「死後、二年間こそ重要」派の人たち までそこに合流して一周忌、三回忌の王まで揃えられて、その結果 十人の王たちが 誕生することになった‥そんな感じなんでしょうか。

 あるいは。中身が全然はっきりしない「十王」という概念が先にあって。 その十人の王って、いったい誰だよ? ‥なんて話が出てきたとき、 「十」という数字に沿って王を割り振ろうとした。でも 七七日のそれぞれに王を割り振っても3人余るから、それを何かテキトーに割り振ったら 百日、一周忌、三回忌になった。そんな感じなんでしょうか‥。

(‥いや、この話はダメか。 中国産の『預修十王経』ですでに百日がありますから、つまり日本人による設定じゃないのは 明白ですから‥)

[次] 本地の仏菩薩たち