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じつは閻魔王と地蔵菩薩の同一視については、割と古くから行われていたのかもしれません。 これについては現存する日本最古の仏教説話集『日本霊異記』(9c前半)に記述があります。
‥んー。日本国内での地蔵信仰といえば以下:
石田2013もこの点について以下:
日本人と地獄 [ 石田瑞麿 ] |
本経の不思議な点の一つに、十王のそれぞれに「本地」(正体)として 仏菩薩が割り振られている点があります。 本経成立時にはすでに閻魔王と地蔵菩薩を同一視する説も、ないことはない 感じではあったんですけど、それに影響されたんでしょうか。 そして、そんな感じでわざわざ 王たちに仏菩薩を割り当てておきながら、それが本経の中では 5:地蔵菩薩以外は 全然活かされていないこと。 これも謎としか言いようがないところですよね。 たとえば「二番目は初江王宮、釈迦如来である」と書かれている訳ですけど。 それで2:釈迦如来が何かするかというと、何もしてない‥どころか 釈迦如来も初江王も存在感すら皆無ですから。何なんでしょう、これ。
んで、これについては、私の妄想では、地獄極楽図との関連があるんじゃないかと思います。 この経典をもとにした地獄極楽図を描く場合、 たしかに「対応する本地」があった方がいろいろ描きやすいんじゃないか、 そして、どの王に対してどの本地を振るかが決まってないと絵師の人たちが困るという レベルの問題に対処するため、自然にああいう割り振りが決まっていったんじゃないかと。 私はそういう妄想を持ってますけど、どうなんでしょうね。
ちなみに台湾の地獄変相図(2005)を見ると、 2:初江王の管轄する地獄のひとつ「餓鬼地獄」には、 「大慈大悲観世音菩薩か地蔵王菩薩」が救済のため出現するように書かれてます[see 21世紀的地獄絵図(台湾(中国),21C)]。これだと「本地は釈迦如来」とか言われても全然ピンと来ないですよね。 「おいお釈迦様、ちゃんと仕事しろ! なんて観音様やお地蔵様にやらせてんだよ!!」と 言いたくなってしまいますけど。でも 「2:初江王の本地は釈迦如来」なんて対応付けが通用するのは日本だけですからね。仕方ない‥
[Table of Contents]あるいは。別の可能性として「本地もの」[コトバンク]というやつもありそうです。 「本地もの」というのは、日本の中世に盛んだったみたいですけど。ある神様仏様がいて、 その神様仏様が神様仏様になる前はどうだったかという感じの、前世の話を述べる物語です。 たとえば『神道集』では熊野権現について以下:
‥と書かれていますが、そんな感じの物語というか設定です。
岩波講座東洋思想(第16巻) [ 長尾雅人 ] |
日本の神様などの過去世を語る「本地もの」には、インド原産の仏教説話のジャータカ・本生譚の 形式が流用されているパターンが結構多いようです。 しかし流用される際に、いかにも日本的な改変が行われることが多かったようです。 インド原産の仏教説話の本生譚の場合、
ところで、地蔵十王経における「二番目は初江王宮、釈迦如来である」というのも、
この「本地もの」の記述と同じで、釈迦如来の過去世の一つとして初江王を位置づけて
「二番目の初江王は、のち釈迦如来となるのである」ということではないかと‥‥え? ダメか??
初江王が釈迦如来の前世ということはつまり、もう今は初江王は亡くなって不在ということになるから、
つまり「十王経」の内容は(それが大昔は事実だったかもしれないが)現在は事実とちがう話に
なってしまうから、それはマズいのか? なんか訳わかんなくなってきたぞ?? (^_^;
でも、いずれにせよ「本地もの」の流行を受ける形で、それぞれの王に本地がつけられたと 考える場合。それだと地蔵十王経に本地仏がつけられたのは室町時代になりそうですけど、 どうなんでしょう。
あるいは。十王伝説だけ出されても、それと仏教との関係て、ほとんど見えないですよね。 仏教と関連したものだと強調するため、あるいは仏教関係の人たちに十王伝説に親しんでもらうため、 無理無理に仏菩薩と結びつけてみたという感じなのかもしれません。 ‥まあ、根拠のない妄想ならば いくらでも湧いてくる感じですね。
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