[仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 (発心因縁十王経、地蔵十王経)]

地蔵十王経について

成都府大聖慈恩寺沙門蔵川述
『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(12世紀?)
(発心因縁十王経、地蔵十王経)

に関する「めも」です。


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本地の仏菩薩たち

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意外と古い閻魔王=地蔵菩薩

じつは閻魔王と地蔵菩薩の同一視については、割と古くから行われていたのかもしれません。 これについては現存する日本最古の仏教説話集『日本霊異記』(9c前半)に記述があります。 

[大雑把訳] よいか、ワシについてだが。ワシは閻羅王である。 おまえの国では地蔵菩薩と呼んでいるが、それのことだ。 (原田・高橋訳1967(東洋文庫) p.175 に対応部分)

  ‥んー。日本国内での地蔵信仰といえば以下:

日本には地蔵信仰は8世紀頃には流入していた。 10世紀頃、浄土信仰の高まりとともに来世信仰・地獄抜苦のご存在として知られることに。 しかし貴族たちの間では地蔵は阿弥陀仏の添え物的扱いの域を出ず、地蔵信仰は盛り上がらず。 [ お地蔵さま (概説) ]
こんな感じのはずですから、地蔵信仰が盛り上がる10世紀より前、 9世紀前半におけるこの「霊異記」における 地蔵菩薩=閻魔王 のネタが、 どこのどういう人たちの間で伝えられたのか、 そしてその具体的な内容はどういう感じなのか、そのへんのことは 全然わかりません。

 石田2013もこの点について以下:

この当時、地蔵菩薩がどのような地位や役割を果たす菩薩として受用されていた か、それを語る例証はほとんど皆無である。‥(略。当時作られた阿弥陀三尊像の中に 地蔵菩薩らしき姿があることを述べ、)‥ 地蔵は阿弥陀仏信仰と係わって、浄土往生を推進する役割の一端を担っ ていたといえようか。 (石田瑞麿(2013;原本は1998)『日本人と地獄』講談社学術文庫, pp.41--42)
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このように述べてますから、まあ、文献的な手掛りを見つけるのは かなりしんどい感じなんでしょうね‥。

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地獄極楽図のため?

本経の不思議な点の一つに、十王のそれぞれに「本地」(正体)として 仏菩薩が割り振られている点があります。 本経成立時にはすでに閻魔王と地蔵菩薩を同一視する説も、ないことはない 感じではあったんですけど、それに影響されたんでしょうか。 そして、そんな感じでわざわざ 王たちに仏菩薩を割り当てておきながら、それが本経の中では 5:地蔵菩薩以外は 全然活かされていないこと。 これも謎としか言いようがないところですよね。 たとえば「二番目は初江王宮、釈迦如来である」と書かれている訳ですけど。 それで2:釈迦如来が何かするかというと、何もしてない‥どころか 釈迦如来も初江王も存在感すら皆無ですから。何なんでしょう、これ。

 んで、これについては、私の妄想では、地獄極楽図との関連があるんじゃないかと思います。 この経典をもとにした地獄極楽図を描く場合、 たしかに「対応する本地」があった方がいろいろ描きやすいんじゃないか、 そして、どの王に対してどの本地を振るかが決まってないと絵師の人たちが困るという レベルの問題に対処するため、自然にああいう割り振りが決まっていったんじゃないかと。 私はそういう妄想を持ってますけど、どうなんでしょうね。

 ちなみに台湾の地獄変相図(2005)を見ると、 2:初江王の管轄する地獄のひとつ「餓鬼地獄」には、 「大慈大悲観世音菩薩か地蔵王菩薩」が救済のため出現するように書かれてます[see 21世紀的地獄絵図(台湾(中国),21C)]。これだと「本地は釈迦如来」とか言われても全然ピンと来ないですよね。 「おいお釈迦様、ちゃんと仕事しろ! なんて観音様やお地蔵様にやらせてんだよ!!」と 言いたくなってしまいますけど。でも 「2:初江王の本地は釈迦如来」なんて対応付けが通用するのは日本だけですからね。仕方ない‥

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王たちさえ やがて仏になると?

 あるいは。別の可能性として「本地もの」[コトバンク]というやつもありそうです。 「本地もの」というのは、日本の中世に盛んだったみたいですけど。ある神様仏様がいて、 その神様仏様が神様仏様になる前はどうだったかという感じの、前世の話を述べる物語です。 たとえば『神道集』では熊野権現について以下:

証誠殿ト申スハ、本地阿弥陀、昔ノ喜見聖人是レナリ
[大雑把訳] 証誠殿(熊野本宮の主神・家都美御子大神)の本地は阿弥陀さま。 過去世の一つが喜見聖人であった。 (喜見聖人って 法華経で有名な 一切衆生喜見菩薩のこと?)

‥と書かれていますが、そんな感じの物語というか設定です。

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 日本の神様などの過去世を語る「本地もの」には、インド原産の仏教説話のジャータカ・本生譚の 形式が流用されているパターンが結構多いようです。 しかし流用される際に、いかにも日本的な改変が行われることが多かったようです。 インド原産の仏教説話の本生譚の場合、

釈迦牟尼仏の過去世における菩薩行は、誰でもがそれを行ずるならば仏になれる、という、 「方法」としての性格を有している (出雲路修(1989)「説話」『長尾他編(1989)岩波講座東洋思想16 日本思想2』岩波書店, p.272)
つまり「仏はどうやって仏になったのか」という因果関係がハッキリ描かれるもののようですけど。 日本の「本地もの」の場合、その因果関係がハッキリとは描かれないことが多く
「苦難をのりこえたがゆえに神仏となった」というより むしろ「苦難をのりこえた。神仏となった」と理解されかねないような叙述 (出雲路1989,p.272)
つまり、前世に何をしたから神様になったのかがよくわからないけど、 とにかく神仏になる前に何かしたみたいだよ、という程度の話にとどまっているみたいです。 それでは現在に生きる我々の教訓話にはならない‥。というか 神様と 我々人間とはまったく違う、完璧に区別されているべき、との考えなんでしょうか‥

 ところで、地蔵十王経における「二番目は初江王宮、釈迦如来である」というのも、 この「本地もの」の記述と同じで、釈迦如来の過去世の一つとして初江王を位置づけて 「二番目の初江王は、のち釈迦如来となるのである」ということではないかと‥‥え? ダメか?? 初江王が釈迦如来の前世ということはつまり、もう今は初江王は亡くなって不在ということになるから、 つまり「十王経」の内容は(それが大昔は事実だったかもしれないが)現在は事実とちがう話に なってしまうから、それはマズいのか? なんか訳わかんなくなってきたぞ?? (^_^;

 でも、いずれにせよ「本地もの」の流行を受ける形で、それぞれの王に本地がつけられたと 考える場合。それだと地蔵十王経に本地仏がつけられたのは室町時代になりそうですけど、 どうなんでしょう。

 あるいは。十王伝説だけ出されても、それと仏教との関係て、ほとんど見えないですよね。 仏教と関連したものだと強調するため、あるいは仏教関係の人たちに十王伝説に親しんでもらうため、 無理無理に仏菩薩と結びつけてみたという感じなのかもしれません。 ‥まあ、根拠のない妄想ならば いくらでも湧いてくる感じですね。

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