[前] 本地の仏菩薩たち |
当初「十王経」において非常に重要な役割を担っていたのは やはり、十王たちで間違いないと思います。だって「十王経」の メインテーマが「人の死後、そして王たち」のはずですし、 そもそもタイトルが「十王経」ですからね。
しかし。経緯は不明ながら、冥途の世界の十王のそれぞれに「本地」として(有名な)仏菩薩が 割り当てられることになります。 それにより 人々の関心は十王自身よりも、その本地とされた仏菩薩に移っていったのではないでしょうか。 やっぱり本地がつくと 人々は「十王よりも、結局は本地の仏菩薩でしょ」となり、 自他の冥途での救済を願って 十王たちの 本地とされた不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩などを一所懸命拝むようになる。 ‥そんな感じに信仰と興味の対象が変わっていくのが自然ですよね。そして、 そこまできてようやく「十王」信仰も完璧な仏教信仰の仲間入りを果たした、そういう感じでしょうか。
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こんな感じで、本来は「十王経」の主役のはずだった十王はどうでもよくて、 結局は本地である十人の仏菩薩たちが大事になっていくという流れは、 「十三仏」という信仰となるに至ってほぼ決定的になったんではないでしょうか。 「十三仏」[Wikipedia]と いうのは、要するに、十王の本地である十人の仏菩薩にさらに 三人の仏菩薩を足して十三人にしたものです。一般的な「十王信仰」における十王の本地仏菩薩:
んで、この「十三仏」信仰について私が非常に強く感じるのは、上でも書きましたが、 これが完全に「十三仏」に対する信仰になっていることです。
[Table of Contents]‥ 何を言いたいかというと。十三仏は、あくまで冥途の「十王プラス三人の王」の本地という位置付けでは あるのですけど。この「十三人の王たち」が「十王」よりもさらに存在感が希薄になっている気がするんですよね。
どれくらい希薄になっているかは、「十三仏」などでGoogleなどで検索をかけてみるとわかります。
‥‥あれ? 十三仏だから、それに対応するのは 十王じゃなくて十三王じゃないの? と思ってしまいますけど、 そんなのも気にならないほど十王の存在は薄いんですよね。
[Table of Contents]ちなみに。「十三王」の名前を列挙しているあちこちのページを見て気づいたんですけど。 十王の名前についてはとにかく、後で追加された残りの三人の王たちについては、 名前が統一されていない気がします。たとえば:
(^o^;
とにかく、この見事なまでのバラバラっぷりを見るにつれても、 人々における「十三王」のどうでも良さがよくわかってしまいます。 ( 「十王(十三王)と十三仏」[URL] は上記を「A説、B説、C説」のように併記しています。 ということは基本、この3説のみなんでしょうか。そのへんは現状ではよくわかりません。)
[Table of Contents]私個人の感想としては。十王のことが完全に忘れられたように書かれている「十三仏」の一覧、とくに 「十三佛の仏さまとは?」 [URL] のようなページを見てますと、つい、 「(十王信仰も) 成長したなー」としみじみ感動してしまいます。 十王のそれぞれに割り振られた本地の仏菩薩、そのキャラを基にして、 人の死後に対する それぞれの本地仏の役割についての物語ができあがっています。すごいですね。 やはり日本は昔から とにかくキャラが大好き、そんな文化だったんですね。
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