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西院河原地蔵和讃について

「西院河原地蔵和讃」 [URL]
(賽河原、賽の河原、佐比の河原‥とも)
に関するメモ。まだ整理できてないですが‥


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子ども と葬儀

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昔、子どもは葬儀せず

このような物語がわざわざ作成され、それが広く広まった背景については 「子ども(幼児)の死」をどう理解するかが 時代とともに変化してきたから、という感じで解釈する人たちもいます。

 速水1975は「室町時代になって賽の河原の信仰がおこる背景には、幼児の死についての 観念の変化があったとする」という圭室諦成氏の説を紹介しています(p.157) (圭室説は未見なので孫引きです‥)。

 昔は、子どもが亡くなったときは通常の葬儀を行わないことが一般的でした。

 岩田重則(2009)『「お墓」の誕生』岩波新書.p.173周辺を読むと、 20世紀前半の段階でも、土葬していた地域では 嬰児、子ども、大人では どんな形で墓を作るかが違っていたみたいです。 (昭和20年代(1950年頃)までは、すくなくとも地方の庶民のあいだでは土葬は割と普通だったと思われます。)

  • 大人は墓地に埋葬されて石塔を建設
  • 子どもは墓地に埋葬されるが、石塔なし
  • 嬰児は屋内(床下、土間、便所、川に流す‥など(pp.156--158))に
こんな感じで、子ども、嬰児は 大人と同じように埋葬されなかった パターンが多かったようです ([注意] 21世紀初頭、我々にとってはフツーな存在である「先祖代々墓」というやつ。 あれは実は20世紀になってから普及したもので、それ以前は「先祖代々墓」というものは ほとんど存在していなかったようです。念のため)。 20世紀前半になってもそんな感じだったようですから。 まして中世までであれば、もっと厳然たる区別があって当然だろうと。

 嬰児や小児の遺体をきちんと埋葬しなかった点については、柳田1946 でも以下のように 言及しています。小児の魂は‥

年 とった者に比べると、身を離れて行く危険の多かった代りに、また容易に次の生活に移るこ ともできて、出入ともにはなはだ敏活なように考えられていた。‥(略)‥ 関東、東北の田舎 には、水子にはわざと墓を設けず、家の牀下に埋めるものがもとは多かった。若葉の魂とい うことを巫女などはいったそうだが、それはただ穢れがないというだけでなしに、若葉の魂 は貴重だから、早くふたたびこの世の光に逢わせるように、なるべく近い処に休めておいて、 出て来やすいようにしようという趣意が加わっていた。‥(略)‥
 この再生が遠い昔から、くり返されていたものとすれば、若い魂というものはあり得ない 道理であるが、これは一旦の宿り処によって、魂自らの生活力が若やぎ健やかになるものと、 考えていた結果と推測せられる。 (柳田國男(1946;repr 1990)「先祖の話」『柳田國男全集13(文庫)』ちくま文庫, pp.200--201)
植物の苗のようなイメージなんでしょうか。若い魂、「若葉の魂」は 下手にきちんと埋葬してしまうと 再生しにくくなる、だから再生しやすいように「この世」の人々の生活空間の近場に、 簡素に、遺体を始末したほうがよい、と。そんな感じの考えがあったのでは? ということですよね。

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室町時代後期から変化してくる

速水1975によれば‥

中世の初めまでは、貴族社会でも、 七歳くらいまでの子供の死の際は、仏事をおこなわず、遺体を山野に捨てるのが 通例だった。‥(略)‥ しかし十五世紀ころになると、童子・童女の位牌もあらわれはじめ、 幼児についても、一個の人格を有する霊魂として追善すべきだという観念が、 一般化してくる。そうした幼児の死についての関心の高まりのもとに、 賽の河原の信仰が形成されたのであろう、というのである(速水1975; pp.157--158)
このように圭室説をまとめています。 15世紀だから、室町時代後半、信長やら秀吉やら家康らが出てくる戦国時代の 100年ほど前ですね。ちょうど「葬式仏教」の流れが出てきた頃か。 その頃に「幼児についてもきちんと葬儀しようぜ」という観念が一般化してきた、と。 「賽の河原」の物語が出てきたのは、そのような宗教的流行が背景にあった、と。

 ‥なるほど。ということは、こういうことですかね。

「これまでは子どもの追善供養はしていなかった。それだと子どもは罪深いゆえ、 賽の河原の地獄に墜ちてしまう。子どものことを思うなら、子どもについても キチンと追善供養をしてやるべきだ。そうすれば大人と同じように極楽浄土に行ける‥ かもしれないから」
‥こんな感じで、幼くして亡くなった子どももキチンと供養してやれよ、 というメッセージなんでしょうかね。

 私は速水1975のこの説明を読んだとき、 つい「ああ、なるほど!」と声を出してしまいました(^_^;

 ただこの考えって、上で紹介した「すぐ再生できるよう、幼児の遺体は 生活空間の近くで簡素に処理する。しっかり埋葬しない」とは合わないのは何なんでしょうかね。 仏教の影響が強い人たち、社会的な階層が高い人たちは「子どももしっかり供養しようぜ」派で、 仏教の影響を受けにくい庶民、とくに農村の庶民の間では「子どもはすぐ再生できるよう簡素に」派 という感じなんでしょうか。‥いやいや。遺体は簡素に処理し、しかし供養の法事は丁重に行う、 こんな感じにすれば両者は並立可能ではありますね。いまいちスッキリしないですが‥

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[ふろく] 朝鮮(19c末)の状況

「子供の葬儀」についての、李氏朝鮮末期(19c末、日清戦争の頃)における状況を イギリス人の人が紹介してましたので、それを紹介します:

Few children under nine years old are buried, and those only among the richest class. When death occurs, the mother, wailing bitterly, wraps the body in matting, and throws it away, i.e. she places it where the dogs can get at it. ...(snip)... The belief is that the Heavenly Dog which eats the sun at the time of an eclipse demands the bodies of children, and that if they are denied to him he will bring certain calamity on the household. (Isabella Bird Bishop(1898),"KOREA And Her Neighbors",F.H. Revell Co.; p.204. [Web Archive]) // 九歳以下の子供は、最も裕福な階級でだけ埋葬されるが、殆ど埋葬されない。子供が死ぬ と、その母親は声をあげてひどく泣く。死んだ子供の体を敷き物で包み、捨てる。つまり、 彼女は、犬が運べる所にそれを置いておく。‥(略)‥ 日食の時に太陽を食べる天の犬が、子供 の体を要求する。もし拒否すると天の犬は、その家にある種の不幸をもたらす、と信じられ ている。 (朴尚得訳(1993)「朝鮮奥地紀行1」東洋文庫572, pp.325--326)
庶民だと、子供は埋葬すらしない、と。わざわざ犬に食べさすみたいですね。 でも、ここで出てくる「天の犬(Heavenly Dog)」って何だろう? ちょっとよくわからないので 何も言えません。ただ言えるのは、隣国朝鮮でも 「成人した人」と「成人しなかった子ども」では葬儀のやり方が違っていた、 ということですね。柳田師が説かれる「若い魂」的な感じは‥‥。んー、どうかなー。 なにせ、通りすがりのイギリス人による記述ですから、詳細は全然わからんですね。

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