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盂蘭盆経について

佛説盂蘭盆經 (大正0685) に関する「めも」です。


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先祖供養

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盆行事は先祖供養。先祖?

「お盆」は「盂蘭盆」で、それは仏教の伝統とともに日本に流入してきた。--- 何というか、 これは当然のごとくに思われていることではありますけど。本当か? という疑念を持つ人も いない訳ではないようです。

 疑念の理由は何か? といえば。それは「お盆」が先祖供養を目的とした行事だからです。

 どういうこと? 先祖供養でしょ?? それで仏教と違うって‥と思うかもしれませんけど。 こんなこと仰せの方もおられます:

盆の場合でも同じことだが、一方に念仏供養の功徳によって、必ず極楽に行くと いうことを請け合っておきながら、なお毎年毎年この世に戻って来て、棚経を読んでもらわ ぬと浮ばれぬように、思わせようとしたのは自信のないことだった。その矛盾を心付かぬほ どの日本人ではなかったはずであるが、 (柳田國男(1946;repr 1990)「先祖の話」『柳田國男全集13(文庫)』ちくま文庫, p.61)
なぜ先祖供養が仏教と相容れないかといえば。仏教的な世界観の根底には「輪廻」もしくは 「極楽往生」という考え方があるからです。 「輪廻」とはつまり、人は死ぬと、別の存在として生まれ変わって‥という、 ふつう日本人であればその考え方はどっかで聞いたことある感じの例のアレです。 また「極楽往生」も だいたいご存知のことと思います。 これらが何故に先祖供養と相容れないか?

 ‥だって、そうじゃないですか。輪廻説に従えば、死んだ人は 死後三年もたてば 別の生き物になって、別の暮らしを送ることに なる訳ですから。なので「ご先祖さま」としてのご先祖さまは、もう どこにもいない、ということになりますよね? さらに極楽往生を果たした人は、はるか彼方の極楽浄土にて満ち足りた暮らしを 送っており、最早この世のことなど どうでも良い感じになってるはずです。 じゃあ私たちは一体、何に向かって手を合わせているのか?? ‥ということに なりますし、実は ご先祖様に手を合わせている私たち自身、誰かの「ご先祖様」の 輪廻後の存在であるなら、 どこかで手を合わされてるのかもしれませんよ。でもそんな自覚ないですし、 手を合わせてもらったから何かラッキーなことがありそう、なんても考えないですよね。

 そんな、盂蘭盆は仏教行事とは違うのでは? と疑う人の中での超大物といえば、 やはりあの方。柳田國男師でありましょう。 ただその柳田師をしても「本当に信じていいのか? あやしくない要素は本当にないのか?」といった レベルの疑念にとどまっているようなんですけど。 でもここで一応その説を紹介しておきたいと思います。

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柳田師は疑う

たとえばわ が邦では旧暦七月の十五日に、盂蘭盆会という法会を執り行わしめられた例が、公けにもか なり古くからあった。しかしそれだからこの前後の幾日間を盆というようになったのだとい う仏者の説は、有名また平凡だというばかりで、ちっともまだ証明せられてはいないのであ る。果して梵語のウラブンナを、ボンと略しても通ずるような語法があるのか。もしくは漢 土において音訳の盂蘭盆を、盆と書いても通用した例があるのか。はたまたそれはただわが 邦だけの偶合であって、たまたま外来音の聯想があったために、盆という漢字が僧俗の間 に、特に人望を博したというだけではないのか。それらを考え合せてもみずに、ただ古来の 速断を受売りしているのは困ったものである。
 私の解釈とても一説に過ぎないが、盆または盆供は中世以前の記録では、たいていは皆(eKanji data)の字を用いている。 (eKanji data)も盆もともに土焼きの食器のことで同じ物らしいが、これを女や子供 までが始めから音で呼んでいたか、ただしは今日の「御座る」という語のように、文字を識 る人々のしゃれてボンと唱えたのが、後々普及したものか、実は漢文で見ていただけでは判 らぬのである。 (柳田1946, pp.108--109)
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古代中国において、すでに盆は盆器と思われていた。‥という話を岩本1979はしています。しかしそれは柳田國男『先祖の話』が出版された33年後のことですから、 柳田師がそれを知らなくても仕方ない‥。

 私が気になったのは、そこではなくて。 「お盆」という行事は 誰がどう考えても、純粋仏教的なものではない訳ですけど。

 この非仏教的な要素について、柳田師は民俗的資料を縦横に駆使して 何を考えるのか? という点が気になったのです。

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柳田師は想像する

「盆」における非仏教的要素について。柳田1946はホガイ、ホカイに注目します。 ホカイとは「食物を神霊に供えること」、ひいてはお供えの容器となって外居(ほかい)とも 書いたりするみたいですけど。曰:

現在の外居は形こそさまざまだが、どれも木で製したことは一様 であり、またたいていは漆をもって外を黒く内を赤く塗って、従って連年の使用に適するよ うになっているが、以前は一回ごとに新しく調えるのに、白木ではあまりに費えであって常 の人には向かず、素焼の土器をもって好みの形を造っていたのが、(eKanji data)または盆というものの 起りで、その字がはからずも盂蘭盆会の文字の中にもあるところから、これが大いに行われ たものだろうと私は想像している。(柳田1946, p.116)
日本には「ホカイ」という習慣があったが、そのホカイと「盆」がつながり、 やがて「盆」として仏教的行事の仮面をかぶったものとして広まったのでは、と。

 たしかに仏教的世界観からすると、毎年のように盆棚に祀られる「ご先祖様」とは何者ぞ?? 的な 疑問はどうしても解決できないですからね 「もとは祖霊祭だったのが、諸事情によって 仏教的仮面を被らされてしまった」とした方がスッキリするのは確かです。

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輪廻と先祖

先祖供養と輪廻思想の矛盾について、庶民でもやっぱり薄々気付いてたんだろうな。‥そう 感じさせられる用例を見つけたので紹介しておきます (杉浦さんの作品は、江戸明治期の文献のどこかに出典があるものが多いですので、 たぶん本作もそうなんだろうと勝手に思ったので紹介します)。

 ここで紹介するのは 杉浦日向子『百物語』の「30:盆の話」というものです。 ある盆の日。亡母のための盆棚を用意していた娘が、自分の母親を見つけてしまった シーンです。なんと母親は鼠になっていたのです。驚いた娘はこう問いかけるのです:

情けなや おっかさん。 // おとっつぁんに 恥ずかしくは ないのか、 // 娘が いとしくは ないのか。 (杉浦日向子『百物語』(新潮文庫1995) 30:盆の話)
しかし。こう言われても今の母親は鼠です。特別なリアクションを示すこともなく、 ダッと逃げていってしまうのでした。それにショックを受けた娘は、 盆棚のお供えを止めてしまいます。妹に「仏様の 罰が当たるよ」と言われるんですけど、 それに答えて:
罰が 当たるのなら、 姉ちゃんは きっと猫に 生まれ代わるよ。 (杉浦日向子『百物語』(新潮文庫1995) 30:盆の話)

 輪廻思想を本気で考えるとやっぱ、自分の亡き母親はそこにその姿でいる訳ではない。 この場合、たまたま知ってしまった母親の現状は、ネズミだった。‥それに気付いてしまったら 当然、先祖供養なんてバカバカしくて やってられなくなる。でも日本人の多くは 先祖供養をやらないと気が済まないから、だから輪廻思想は知っていてもそれを深く追求する ことはせずに済ませてきた。そんな感じなんでしょうか。

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