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中国古典にみる外道ども

中国古典にみる「外道」の用例です。といいながらインドとの区別は曖昧‥


[前] まとめ (法顕伝)

『梵網経』(5c)にみる外道

『梵網経』、正確に書くと 『梵網經盧舍那佛説菩薩心地戒品第十卷上』(大正No.1484;[SAT])を中国古典として取り上げました。 このテキストの冒頭には「後秦亀茲国三蔵鳩摩羅什訳」とありますので 「なんだ、インド古典の翻訳じゃん」と思ってしまいそうですが、 「広辞苑」にはこう書いてあります:

ぼんもう‐きょう【梵網経】‥マウキヤウ

   二巻。鳩摩羅什(くまらじゆう)の訳とされるが、五世紀頃成立した偽経。大乗 
   菩薩戒の根本聖典として重視される。
偽経、すなわちインド原産と見せかけて実は中国原産という「産地偽装」な 文献という位置付けですね。 また『世界宗教大事典』にも以下のようにあります。
ぼんもうきょう 《梵網経》
中国で成立した《梵網経盧舎那仏説
菩薩心地戒品第十》の略称.2巻.ク
マーラジーバ(鳩摩羅什)の訳とされる
が,<孝を名づけて戒となす>など,
中国的発想が随所に見え,5世紀の
劉宋期に中国で撰述された偽経の疑
いが大きい.本経の特徴は,10重戒,
48軽戒という大乗菩薩戒にあり,父
母,師僧,三宝に対する孝順を強調
する在家戒はとくに注目される.し
たがって,中国,日本の仏教で重要
視され,天台智ギの《菩薩戒義疏》
をはじめ,多くの注釈がつくられた.
それゆえ、ここでは中国原産のテキストに分類することにしました。


『梵網経』 (大正 1484)

まず重戒の6番目。

若仏子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪
過。教人説罪過。罪過因罪過縁罪過法罪
過業。而菩薩聞外道悪人及二乗悪人説仏
法中非法非律。常生悲心教化是悪人輩。
令生大乗善信。而菩薩反更自説仏法中罪
過者。是菩薩波羅夷罪 (1004c)
[大雑把一部概訳] 菩薩は、外道悪人・二乗悪人が仏法中の非法・非律を説くの を聞いたら、つねに悲心を起こし、これら悪人どもを教化し て大乗への善信が起こるようにしてやる。

ちなみに「二乗」とは声聞・縁覚のことで、いわゆる「小乗」を指す 言葉です。ここから「外道と小乗は異なる」とされていることが、 なんとなくわかります。ただし「外道」を非仏教と解釈しようとすると 「仏法中の非法・非律を説く」の部分がちょっと引っかかります。 まあ「仏法中の」は「二乗」を指す、という解釈も可能ではありますけど。

重戒の10番目。

若仏子。自謗三宝教人謗三宝。謗因謗縁
謗法謗業。而菩薩見外道及以悪人一言謗
仏音声。如三百鉾刺心。況口自謗不生信
心孝順心。而反更助悪人邪見人謗者。是
菩薩波羅夷罪 (1005a)

軽戒の8番目。

若仏子。心背大乗常住経律。言非仏説。而
受持二乗声聞外道悪見一切禁戒邪見
経律者。犯軽垢罪  (1005c)
[大雑把一部概訳] 仏子のうち、大乗常住経律に心を背け、 非仏説といい、二乗声聞外道悪見一切 禁戒邪見経律を受持する者は軽垢罪。

ここも重戒6と同じ用例だと思われますが、ここでの「外道」を 非仏教と解釈しようとしますと、わけがわからなくなりますよね。 「仏教以外の経律を受持する仏子」っていったい . . (^_^;

軽戒の38番目。

若仏子。応如法次第坐。先受戒者在前坐。 後受戒者在後坐不問老少比丘比丘尼貴 人国王王子乃至黄門奴婢。皆応先受戒者 在前坐。後受戒者次第而坐。莫如外道痴 人。若老若少無前無後。坐無次第兵奴之 法。我仏法中先者先坐後者後坐。而菩薩 不次第坐者。犯軽垢罪 (1008b)
[大雑把一部概訳] 誰でも先に受戒した者が前に坐り、 その後も受戒した順に坐ること。外道痴人みたく若老若少 とか無前無後にするな。坐る順序がないのは兵奴の法であり、 私の仏法においては先(に受戒した者)が先に坐り、後が後だ。

坐り順にうるさい理由は「摧我慢於世間」(T1813,p.651b) 「為離[心喬]慢随順教法故制」(T1814,p.683c)とか書かれていますけど、 なぜここで「外道」が引合いに出されているかはよくわかりませんでした。

軽戒の42番目。 この箇所は『今昔物語集』の vol.11 (本朝部),no.26 で 言及されている箇所です。 ここはなかなかイイっすよ (^_^)

若仏子。不得為利養故於未受菩薩戒 者前若外道悪人前説明此千仏大戒。邪見 人前亦不得説。除国王餘一切不得説。是 悪人輩不受仏戒。名為畜生。生生不見三 宝。如木石無心。名為外道邪見人輩。木頭 無異。而菩薩於是悪人前説七仏教戒者。 犯軽垢罪 (1009a)
[大雑把一部概訳] 仏子は欲得のため菩薩戒を受けてない者・外道悪人・ 邪見人の前でこの千仏大戒を説いてはいけない。 国王だけは例外で、それ以外はダメ。そんな悪人 どもは仏戒を受けてないので「畜生」と呼ぶ。 生きて三宝も見ず、木石のように心がないのは 「外道邪見人輩」である。木頭と違わない。 そんな悪人の前で七仏教戒を説けば軽垢罪。

「外道は悪人で畜生」‥ ついに人間以外のものへの形容がつきました (^o^)

 まあ「三宝を見ないで(単にダラダラと生死を繰り返すだけなので)畜生と変わらない」 というのは理屈としてはわかりますけど、どのへんがどう「悪人」なのかについては 述べられていないですね。「業の異熟ゆえに仏道に入れなかったヤツらは、 まさしく存在そのものが悪としか言いようがない」という展開だったら コワいですね〜。

ということで、外道がどのように悪であると考えられていたのか。 注釈を見てみましょう。まずは『菩薩戒義疏』(隋天台智者大師説)(T.1811)。

凡未受菩薩戒者。皆曰悪人。若預為説後受不能慇重故制。七衆同大小制。 序事三階。一不得輒説唯除国王。外道悪人即九十五種。 是悪人輩下第二不受皆為悪人。空生空死同畜生也。而菩薩下第三挙非結過 (T.1811,p.579ab)
「菩薩戒を受けていないもの皆を『悪人』という」と書いてありますね。 てことは「悪人」はこの業界独自のテクニカル・タームであるということか。 何てことだ!! (^o^;;

 ちなみに 「外道悪人には九十五の種類がある」とあることから、 『菩薩戒義疏』(T.1811) で「外道」とは非仏教を指しているのではないですかね。

軽戒の48番目が以下に続く予定。


ついでに注釈関係もここに出す予定。

[ Last Updated: 2000 ]
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