多田等観師がみるラマ
さらに『チベット人・韓国人の思惟方法』から。
この本では 多田等観,『チベット』,岩波書店,1942. という本からの
引用がおこなわれていますけど、その部分の孫引きを以下に。
(ちなみに多田等観師については
このページから「評伝・多田等観」という記事が読めますした)
西蔵僧の常に口誦する語に「ラマなかりし已前には仏という名字すらない。
千劫の仏と雖もラマに依りて存す」とある。即ち仏の存在や仏の教など、
総てラマの導きによって知り、且行い得るのであるから、ラマこそは
我を仏道に入らしめる真実の導師である。ラマの教なくしては絶対に
成仏が不可能である。過去の仏も悉くラマの教をうけ、之を信じ、行い、
証を得たのであるとしているのである。かような場合にはラマは尚、
師匠の意味を明瞭に保持しているというべきであろう。
しかし更に、自己を救うための師匠という意味から、一層重要な
観念がこれに附加せられてくる。即ち自己のラマは、己にとりては
三宝已上に尊いものとせられるのである。単に観念の上でそうである
ばかりでなく、実際の作法に於ても、先ずラマに帰依し、次に仏に
帰依し、法に帰依し、僧に帰依することが要請せられる。それゆえ、
単に仏法僧の三宝だけではなく、ラマを加えた四宝に帰依をいたさねば
ならない。これがラマ教の基本的な教である。そうしてこの四宝の
帰依がラマ教を仏教一般から差別する一標識となっている。ラマ教は、
正しくこのような信仰の上に成立し、発展した教である。
ところでこの思想がさらに進展して、三宝を綜合したものが、ラマである
との考慮が現れてきた。ラマは単に他の三宝と並列するものではない。
三宝を統一したもの、即ち三宝の当体であるという信仰である。ラマは
万善万徳の体であり、あらゆる道の主体であり、功徳の根原である。
ラマに奉仕することが、そのまま三宝に奉事することである。善根を
積むにも、ラマへの奉仕が最上の方法であると考えるようになった。
これは観念の上からも、実行の上からも、必ず行うべきことであって、
之を仏道成就の最も近道であると考えるのである。したがって物質的にも
精神的にも、ラマを満足させるように勤め励むべきであって、そのためには、
自己の生命を犠牲とするも厭わない覚悟を、要するとせられている。
(中村 pp.84-85) (多田 pp.2-3 ... らしい)
おお!! これはすごい!!! (^o^)
つまり。チベットにおけるラマの位置付けについては、
三段階の発展の形跡があるという話で、
- まず、ラマ(グル)は仏道に導く「導師」であり、そういう点でラマは
重要とされた。
- やがて、ラマは直接の師匠ということもあって、仏教において「三宝」とされる
仏・法・僧と同等とされ「四宝」のようになる。‥というか、三宝と同等どころか、
(観念的にも作法的にも)ラマこそが四宝の中で最も重要という位置付けになる。
- さらに進むと、三宝を綜合し象徴するものこそラマである、となっていく。
こうなると、ラマへの奉仕だけが最重要となる。
ここで前提とされてる師弟関係のニュアンスというのは
オウム真理教の事例とかなり近いですね!!
そうか、オウムにとってのグルというのは、(たぶん中沢新一あたりを
経由して) チベット的な観念を取り込んでいたのか!!
( . . . なんてことに今更気付くとはマヌケ > 自分)